「何とかもう1度、立ち上げたい」
2000年4月、米国シカゴに本拠を置く販売子会社の社長に、就任した。ちょうど46歳、米国勤務は2度目で、5年ぶりだ。米国で勝負を賭けた新型のデジタル印刷の出力機の市場シェアは、3%のみ。子会社は、もう閉めるかどうか、瀬戸際にあった。
1度目の駐在も、米国印刷業界を席巻したアップルのパソコン「マッキントッシュ」(マック)を使った卓上出版に出遅れ、急きょ自社製の印刷機器とマックを結ぶソフトを開発し、しのいだ。今回は、もっと追い込まれていた。
卓上印刷は当初、パソコンでつくった映像などのデータをフィルムに出力し、フィルムから印刷用のアルミ板に焼き付けた。だが、90年代後半、カナダの競争会社がフィルムを使わずにパソコンのデータをレーザーでアルミ板に直接焼き付ける「Computer To Plate」(CTP)の仕組みを開発。中間工程を省いてコストを抑え、作業効率を上げて急速にシェアを獲っていた。
国内では、シカゴに赴任する約4年前、そのカナダ企業から日本での販売権を取って、補った。自社製品を売りたくても、まだCTPのいい製品がないので、仕方ない。「お客が求める最先端の製品を用意するのは、当然だ」。上司の役員と、そう確認していた。カナダ企業も日本に販売網を持っていないから、受け入れた。お客をカナダへ連れていき、使用例をみせてもらい、商談をまとめる。
もちろん、自社製品の開発も進めた。技術陣が頑張り、98年にはCTPの新製品が完成する。作業を自動化したソフトもできて、カナダ製品の国内販売は終える。当然、最大市場の米国へも投じた。だが、なかなか売れない。社内に「売り方が悪いのか、製品が悪いのか」といった声が出て、撤退論がくすぶり始めた。
同じころ、日本の大手印刷版材料メーカーも、CTPを開発していた。でも、「日本の企業同士が競争しても、もったいない。先行するカナダやドイツの企業に追いつくには、一緒にやってスケールメリットで追いつこう」と呼びかけ、手を握る。開発を受け持ち、できたら相手ブランドで提供するOEMでの協業だ。
2000年、2度目の米国勤務に手を挙げた。「この事業を捨てることは、会社の将来に禍根を残す。何とかもう1度、立ち上げたい」との思いからだ。ただ、再生への名案は、持っていない。ところが、ここから世界の市場へ返り咲き、デジタル印刷分野の先頭に立っていく。新しいCTPのハードと作業を自動化したソフト、そして米国でも実現させたライバルへのOEMの3つが揃ったのが、勝因だ。その3つ目の背景に「豊富な海外人脈」があった。