愛する家族の最期をどのように見送ればいいのか。僧侶で緩和ケア医の岡山容子さんは、サービス付き高齢者向け住宅での母親の最期の瞬間に訪れた両親の奇跡のやりとりを再現してくれた――。

※本稿は、岡山容子『毒親を在宅で見送った緩和ケア医が伝える 関係のよくない親を看取るということ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

病院のベッドの上の老婆の手
写真=iStock.com/Anzhela Shvab
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母の最期

8月13日夕方、旅行から帰ってその足で、夫と子どもを連れて両親のもとに行きました。実は私が母と会話ができたのは、このときが最後でした。

「お土産はないよ。お母さんはもう食べられないからさ」

この私の言葉に対して、「いらない、いらない」でした。母に何か買って帰ってきても、あまり喜ばないのは昔からです。

この日もまだ、母は歩くことができていました。私の子どもの介助でトイレにも行っていました。

食事は、朝にお腹が空いたと言ってゼリーを1つ食べたものの、むせがひどくてものが食べられない状態でした。夫と子どもがいたのもあり、このときは長居せずに帰宅します。

「もう、こいつ意識ないぞ」と父から電話

その数時間後の午後8時ごろ、父から電話があります。

「もう、こいつ、意識ないぞ。目も開いてるけど、何も見えてないぞ」と言うのです。急いで母のいるサ高住に行くと、母は目を開けたまま意識がなくなっていました。目は右側を向いたまま、脳の障害によって両目が同じ方向を向いたままになる状態だったのです。

しかしこのときの私は、「どうだったっけ。えーと、健康な側を見るんだっけ、反対側を見るんだっけ。大脳と小脳で違うんだっけ……」などと国家試験のころの古い知識を思い出していました。母に異変が起こったということより、自分の医学知識の確認ばかりしていたのです。

「どこが出血したかわからないけど、脳の中で出血が起こったんだと思う。このままもう本当に終わりになるかもしれない」

父にはこのように伝えました。

この状態の母と二人きりで過ごすのを父がいやがったので、私が泊まることにしました。その後、姉もあとから来てくれたので4人一緒です。

翌8月14日。母は言葉を発することはないものの、口の中をきれいにしようとするといやがって顔をしかめます。痛みを問うと小さく反応もありました。

ただ、朝になれば仕事があります。私も姉も仕事に行くのと、父も透析に行くのとで、母のもとに家族はいない状態になります。

ですがサ高住の方がいてくださるのと、いつもの訪問看護師さんが来てくださる予定になっていたので、私は安心して仕事に行くことができました。

看取りは「いつもどおり」でいい

東京の妹たちはというと……。

三女は「16日に休んで京都に行くべきか、16日は仕事をして18日、19日に京都に行くべきか悩んでいる」。四女は「行きたいのだけど、どうしても大切な仕事が16日にあるので迷っている」。このようにそれぞれの希望を伝えてきました。

看取りに際しては「いつもどおり」でいいのです。私は、妹たちにも同じことを伝えました。

「自分の生活をきちんと送りつつ、急な事態に備えてほしい。夜の移動は必要なく、朝を待って行動すればいい。みんなしっかりとそれぞれにお別れはできているのだから何もあわてなくていいんだよ」