織田信長が将来を見込み、家臣になってわずか4年で摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)一国を任せた武将がいた。しかし彼は信長に反旗を翻し、妻子や家臣500人を残して城を去る。なぜ期待された男は「逃げ腰の裏切り者」と呼ばれる結末を迎えたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

秀吉・孝高・信長が信じた男の裏切り

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉・秀長が播磨行きを命じられた。天正5(1577)年のことだ。

播磨は現在の兵庫県南西部を指す。そのさらに西には西国の雄・毛利氏がいて、播磨への進出を本格化させていた。そこで信長は毛利を阻むべく、豊臣兄弟を派遣した。松永久秀を討った同年10月の信貴山しぎさん城の戦い直後だった。

 秀吉は即座に、播磨の中央に位置する姫路城に入った。姫路城は、播磨に勢力を持っていた小寺政職こでらまさもとの家臣・小寺孝高よしたか、のちの黒田孝高(官兵衛)が城代を務めていた。孝高は毛利より織田に付くのが最善だと政職を説得し、政職もこの進言を受け入れ、孝高は秀吉に姫路城を明け渡した。

秀吉の姫路入りにさかのぼること5カ月前の天正5年5月、孝高はわずか5000の兵で毛利の進軍を止めている(英賀あが合戦)。孝高と交流のあったある武将が、この合戦の経緯を信長に伝えると、信長は孝高を高く評価したと『黒田家譜』(黒田家の公式史書)にある。

この「ある武将」の名は、荒木村重あらきむらしげ。播磨の東にある摂津(兵庫県南東部および大阪府北中部)の武将だ。

落合芳幾筆『太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
落合芳幾筆『太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重』東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

孝高―村重―信長のあいだには、強いパイプがあったと考えられる。ところが村重は翌年の天正6(1578)年10月、突然信長に反旗を翻し、毛利にくみしてしまうのである。信長と孝高、そしてもちろん秀吉にとっても、予期せぬ裏切りだった。

信長から「摂津国一職」を許可された実力者

荒木村重とはどのような出自を持ち、信長との出会いはいつだったのかを、簡単に整理しておこう(天野忠幸『戦国期三好政権の研究 増補版』および天野忠幸「有岡城の戦い」『信長軍の合戦史』より、以下天野)。

信長の伝記『信長公記』の著者・太田牛一は、村重の出自を「一僕の身」(雑用係)としているが、荒木氏はそもそも丹波の守護代・波多野氏の一族であり、その後は摂津の有力豪族・池田氏の重臣になったという。

池田氏の勢力に翳りが見えた元亀元(1570)年頃、村重は畿内に進出してきた信長と一時的な対立を経て、天正元(1573)年には服属した。『信長公記』には「(信長から)摂津国一職を仰付けらる」とある。「一職」とは、その地を領地として治めることを信長が認めたことを意味していた。

天正2(1574)年、村重は伊丹城(兵庫県伊丹市)に入城すると「有岡城」と名を改め、本拠地とした。さらに城を中心に家臣の屋敷群や城下町を築き、周囲を堀や土塁などでぐるりと囲んだ惣構そうがまえを持つ、城塞都市として整備した。その都市を率いる男が、突然裏切ったのだ。

こうして、この後約1年、村重は籠城し信長に徹底抗戦するのである。