山崎の戦いは、秀吉が光秀を破った戦いとして知られる。だが実際に勝敗を決めたのは、ほとんど語られてこなかった武将の働きだったという。史料が示す真相を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
光秀の最期を描いた『絵本太閤記 光秀小栗栖で落命の図』
光秀の最期を描いた『絵本太閤記 光秀小栗栖で落命の図』出典=国文学研究資料館/国書データベース

わずか数時間で敗北した光秀

「(明智光秀は)即時敗北」

即時敗北――短時間で光秀は負けた。天正10(1582)年6月13日、羽柴秀吉と明智光秀が対峙した山崎の戦いの模様を、『言継卿記ときつぐきょうき』はこう記している。

『言継卿記』は戦国時代の公家・山科言継やましなときつぐが書き残した日記だ。言継は貴族だから、当然戦場にはいない。誰かから聞いた話だろう。だが戦いの直後に書かれた伝聞だけに、信頼性は低くないと思われる。

また、光秀と交流のあった京・吉田神社の神主で公卿の吉田兼見よしだかねみは日記の『兼見卿記』に、

さるこく(午後4時頃)に鉄砲の音がした」

と記している。つまり戦いは13日午後4時頃に火蓋を切り、短時間で決着がついた、ということだろう。おそらく日が落ちる前に(6月の京の日没は午後7時前後)、明智軍は総崩れとなったと考えられる。

秀吉の圧勝だったとわかる。

太閤記』が記す両軍の戦力

両軍の戦力を比較してみよう。

『太閤記』には軍勢の具体的な数字が載っているが、同書は秀吉に近い軍学者の小瀬甫庵おぜほあんが著しているので信ぴょう性に難があり、誇張もあるだろう。ただし、有力者を軒並み取り込んだ秀吉に対し、近江(滋賀県)や丹波(京都府と兵庫県にまたがる地域)の弱小勢力しか加勢しなかった光秀という実情を反映した数字と考えられるため、一つの目安として挙げておく。

[明智軍]
斎藤利三さいとうとしみつ柴田勝定しばたかつさだら(光秀直臣) 約2000
津田重久つだしげひさ(光秀配下) 約2000
阿閉貞征あつじさだゆき貞大さだひろ父子、池田景雄いけだかげかつら近江衆 約3000
並河易家なびかやすいえ松田政近まつだまさちから丹波衆 約2000
・旧足利幕府の幕臣(光秀とは懇意)/伊勢貞興いせさだおき諏訪盛直すわもりなおら 約2000
・光秀本陣 約5000
・計 約1万6000


[羽柴軍]
・高山右近 約2000
・中川清秀 約2500
・池田恒興と元助もとすけ父子 約5000
・丹羽長秀 約3000
・織田信孝(総大将) 約4000
・羽柴秀吉 約2万
・計 その他を合わせて約4万

この内、明らかな誇張は秀吉本隊2万だろう。秀吉本隊は備中高松城からの大返しの途中で脱落者が相次いでおり、実数は1万ほどだった(大村由己著『豊臣記』/『太閤記』の別版)と考えられる。

なお、秀吉が戦場に「遅参」したという新説については、のちに詳解したい。