「遅参」説には無理がある

だがこの新説、「遅参」というにはちょっと無理があるのではないかと思える。

その理由の第一は、そもそも12日に秀吉が富田に着陣した時点で、両陣営が鉄砲を撃ち合うなど小競り合いをし、近隣に放火があったことなどを『兼見卿記』が記録しているためである。

つまり前哨戦が勃発しており、その延長で13日夕刻、明智軍が先制攻撃を仕掛け、それが本格的な戦闘に発展してしまった――そう、確かに秀吉は「いなかった」かもしれない。しかし、偶発的に始まった戦いの現場に不在だったからといって「遅参」したとは、言葉に誇張が過ぎるのではないかと、疑問が残る。

第二は新史料が発見される前、すでに秀吉は書状(『金井文書』)に6月13日午前、織田信孝を迎えるため富田にいたことを書き残している。これによると秀吉は、本格的に戦端が開かれるのは14日と考え、13日午前中は富田にいた――だが、その思惑は外れた。

『金井文書』を裏づけるかのように、ルイス・フロイスの『日本史』も、キリスト教徒の高山右近が「秀吉が到着していないのに攻撃を開始した」と記している。つまり「秀吉が山崎にいなかった説」は特段に新説ともいえず、以前からあったわけだ。

秀吉が本当に隠したかったもの

秀吉が山崎の戦場に「いなかった」としたら、なぜ、それを何通もの書状で隠そうとしたのだろう?

それは、「いなかった」ことを隠すためではなく、山崎の戦いで最も顕著な戦功をあげた池田恒興に、手柄を独り占めさせたくなかったからではないだろうか。

山崎の戦いの14日後の天正10年6月27日、信長亡き後の織田の後継者問題、領地配分を議題とした、清須会議が開催された。会議は織田家中の幹部5人中、関東方面の戦後処理で参加できなかった滝川一益を除く4人、すなわち羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興によって行われ、4重臣によって亡き信忠の嫡子・三法師を補佐する体制となった(谷口克広『信長と家康 清須同盟の実体』学研パブリッシング)。

秀吉はいまだ4重臣の頂点に立ったとはいえなかった。そこで山崎の戦いにおいて自分は恒興と同等の功績があったとアピールし、まずは恒興の手柄を削いで、自らを際立たせようとしたのではないか。「富田で恒興との先陣争いを制し」た、つまり恒興をコントロールしていたのは自分であると強調しているところに、その意図が見え隠れしているように思える。

もちろん筆者の推測に過ぎない。しかし、秀吉がこうした「喧伝けんでん」を得意としたのは、「本能寺の変で信長・信忠父子は死んでいない」と偽情報を流したのを見ても、明らかだろう。

そう考えると、秀吉の武器は情報操作の巧みさにあった――と、いえるのではないだろうか。

『真柴久吉武智主従之首実検之図』は、秀吉の名を「真柴久吉」、光秀の名を「武智」に変えて首実検の様子を描いている。
『真柴久吉武智主従之首実検之図』は、秀吉の名を「真柴久吉」、光秀の名を「武智」に変えて首実検の様子を描いている。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

参考図書
・高柳光寿『新書戦国戦記4 本能寺の変/山崎の戦』(春秋社、1958年)
・歴史群像シリーズ『俊英 明智光秀』所収 平野明夫「本懐と落胆 光秀天変の二十九日」(学研、2002年)
・『歴史道Vol.13「山崎の戦いを克明に追う!」和田裕弘』(朝日新聞出版、2021年)
・谷口克広『信長と家康 清須同盟の実体』(学研パブリッシング、2012年)
・『戦後史研究』第91号(2026年、戦国史研究会)

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