なぜ徳川家康は、関ヶ原合戦で勝つことができたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「理由の一つに、東北の武将・最上義光の奮戦により西軍の上杉景勝が参戦できなかったことが挙げられる。『戦国最大の悪人』と称される義光の功績はもっと評価されてもよいだろう」という――。
「信長の野望」では義理の数値が「2」しかない
戦国最大の悪人――。敵の殺戮が日常であった戦国時代に「最大」の悪人で呼ばれるくらいだから、よほどひどい所業を重ねてきたのだ。そう思われてきた武将が最上義光だった。
出羽国(山形県と秋田県)の大名で、出羽山形藩の初代藩主となった義光について、昭和43年(1968)から57年(1982)にかけて刊行された『山形市史』には、たとえば「義光は武勇のみならず、調略にも長じ」「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった」などと書かれている。
多くの地方で地元の武将は顕彰されるなか、当該地方で公的に編纂された通史に、このように悪しざまに記されるのも珍しい。その結果、昭和52年(1977)に山形城址に義光像を建てる計画が発表されたときは、猛烈な反対運動が起きたそうだ。
NHK大河ドラマの影響もあなどれない。昭和62年(1987年)に放送された「独眼竜政宗」では、原田芳雄が演じた義光は、渡辺謙が演じた主役、伊達政宗の伯父ではあるが敵役だった。なまじ原田の演技が真に迫っていたので、裏切りや離反ばかりの人物として視聴者に強く印象づけられた。
その影響の一例だろうか。一世を風靡したゲーム『信長の野望』には、君主に対する「義理」という数値があって、値が高いほど寝返りしにくく、低いほど寝返りやすいのだが、義光は下から2番目に低い「ギリニ(義理2)」とされてしまった。
では、史実の義光は、どの程度の「悪人」だったのだろうか。