藤原道長の娘・彰子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「一条天皇の第二皇子・敦成親王が即位してから、道長以上の影響力を持って政に関与し続けた。これは当時の女性としてはかなり異例なことだった」という――。
WOWOWの連続ドラマ「ゲームの名は誘拐」の完成披露試写会に登壇した見上愛さん(東京都江東区のユナイテッドシネマ豊洲)
写真=時事通信フォト
WOWOWの連続ドラマ「ゲームの名は誘拐」の完成披露試写会に登壇した見上愛さん(東京都江東区のユナイテッドシネマ豊洲)

NHK大河で描かれた中宮彰子の挫折感

NHK大河ドラマ「光る君へ」の第40回「君を置きて」では、中宮彰子(見上愛)の挫折感が描かれた。

父の藤原道長(柄本佑)は、彰子が一条天皇(塩野瑛久)の第二皇子、敦成親王(濱田碧生)を出産してから、この親王を一刻も早く東宮(皇太子)の座に就けることに腐心してきた。本来であれば、皇后定子(高畑充希)が産んだ第一皇子、敦康(片岡千之助)が先に東宮になるのが順当で、一条天皇も彰子もそれを望んでいた。

彰子はなぜ自分の子である敦成親王より敦康親王を優先しようとしたのか、と疑問に思うかもしれない。これは一条天皇の思いに寄り添おうという意思だけでなく、早くに母を亡くした敦康を、彰子が長年養育してきたという事情による。

それに、寛弘8年(1011)のこの時点では、敦康親王は数え13歳で敦成親王はまだ4歳。彰子にすれば、実子の立太子を急ぐ必要はなかったが、当時は老齢と認識された46歳で、飲水病(現代の糖尿病)の持病をかかえる道長にとっては、事情が違った。自分が健康でいるうちに外孫を即位させ、外祖父として君臨するためには、時間の猶予がなかった。

そこで、一条天皇に譲位を迫り、敦成を東宮にすべく事を進めたのである