出家後も維持し続けた権威と権力
しかし、その後も、彰子は内裏に参入し、また、多くの殿上人を参入させ、自身の権威を保ち続けた。
万寿4年(1027)12月に道長が没したのちも、その点は変わっていない。たとえば、実資が養子の資平が昇進できるように頼通に頼んだときも、頼通からは、了解したうえで「女院に申すように」と伝えられた旨が『小右記』に記されている。
後一条天皇が病弱で、なおかつ頼通が、なかなか一人で物事を決められない優柔不断な摂関だったこともあり、彰子が実質的に国政を支え続けることになった。
前述したように、のちの院政のモデルになったことからも、彰子の活躍をもって女権の伸張とはいいがたい。しかし、彰子がのちの北条政子などと並んで、異例なほど権力を行使し、「政」に関与した女性であったことはまちがいない。