彰子にあって道長になかったもの
また、2月7日の即位式では、彰子は幼い後一条天皇と一緒に、高御座(伝統的に即位の礼で用いられる調度品)に着座した。母后が天皇と一緒に高御座に座ったのは、史料で確認されるかぎりこれが最初の例である。
内裏では後一条天皇の居所は西対、彰子は寝殿北廂で、池の南の小南第に道長の直廬(摂関や大臣らが宿直や休憩のためにもうけた部屋)があった。しかし、道長はわざわざ彰子の居所に出向いて政務を行うことが多くなった。天皇が幼いときは、叙位や除目は摂政の直廬で行うことが多かったのにもかかわらず、である。もちろん、これは彰子が政務に関与していることの証左である。
なぜ彰子が突然、このように政務に関わるようになったのか。それは後一条天皇の母、すなわち国母となり、天皇に対する親権があったからだ。これは摂政の道長にもないものだった。
では、彰子は女性が政に関わる先例を築いたのか、というと、そうともいえない。彰子のスタイルを踏襲したのは、のちの国母よりも、むしろ院政期の上皇や法王だったからだ。白河上皇は、彰子が親権を根拠にして政務に関与したことを前例として、政治を牛耳ったのである。
それはともかく、道長が1年で摂政を辞し、嫡男の頼通に譲ったのちも、頼通の直廬は彰子の在所に置かれ、彰子は宣旨(天皇の言葉を伝える文書)に関与し続けた。
天皇家と藤原氏のトップに
寛仁元年(1017)8月、三条天皇の第一皇子、敦明親王が東宮を辞退した際は、彰子はここでこそ敦康親王を東宮に、と望むが、それはかなわず、彰子が産んだ一条天皇の第三皇子の敦良親王が東宮になった。しかし、いったん敦良親王が東宮になると、積極的に補佐している。
寛仁2年(1018)正月、11歳の後一条天皇が元服する際、道長が加冠役を務めた。天皇に加冠するのは伝統的に太政大臣なので、頼通が父を太政大臣にする宣旨を出したが、『小右記』によれば、頼通はこれを決めたのは天皇の母后、つまり彰子だと実資に伝えている。
このように国母となった彰子は、かつて「うつけ」と見られたのがウソのように、また、女性が「政」に関われないと嘆いたとは思えないほど、自分こそが天皇家と藤原氏の実質的なトップだという自覚のもと、天皇や摂関を貢献していった。
ところで、父の道長は頻繁に体調不良に陥り、長男の後一条天皇も病気に悩まされたが、彰子自身はかなり丈夫だったようだ。母である倫子の母、すなわち母方の祖母の藤原穆子は86歳まで、母の源倫子は90歳まで生きた。おそらく彰子はそちらの血を引いたのだろう。病気になったという記録がほとんどないまま、承保元年(1074)、87歳で没している。三代にわたって、当時としては異例な長寿なのである。
それだけに、悲報に接する機会も多かった。すでに後一条天皇の治世においても、万寿2年(1025)には末妹の嬉子、異母妹の寛子をはじめ、ゆかりの人々が次々と世を去り、『栄華物語』には、それを受けて「早く出家したい」と思うようになった旨が記されている。
こうして万寿3年(1026)正月、40歳になった彰子は出家して上東門院の院号を得た。