※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本中世史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
源頼朝の「革命なき革命」
源頼朝(一二四七~九九年)の作った鎌倉幕府は、世界史上に唯一無二の偉大な発明品です。なぜか。革命をやらずに革命をやったからです。と言っても、「なんのこっちゃ?」でしょう。
ここに翻訳のズレがあります。漢語の「革命」は、別の人物が皇帝に取って代わることです。英語圏の「レボリューション(Revolution)」は、社会構造そのものを変えることです。頼朝がやったのは、「革命なき社会変革」です。だから偉大なのです。
社会変革では、必ず既得権益を失う人が現れます。だから、血で血を洗う抗争になります。中華世界では皇帝が力を無くすと別の者が皇帝になり、新王朝を開きます。たとえば秦王朝は趙政が打ち立てた王朝です。始皇帝を名乗ります。しかし趙氏の王朝は三代で終焉。劉邦が漢を打ち立て、劉一族に取って代わられます。中華帝国史では、王朝交代のたびに夥しい血が流れています。皇帝の姓が変わるので、易姓革命とも言われます。
それに対して、我が国では皇室に取って代わった者は、一人もいません。藤原氏や平清盛はそれまでの朝廷の枠内で色々とやりましたが、頼朝は幕府政治の確立という劇的な社会変革を成し遂げました。そして長い時間をかけて既得権益を無くします。
公権力として律令体制があり、私有地である荘園も摂関家・院・平家の歴代権力者の基盤であり、という体制を頼朝から四百年かけて完全に変えたと称したのは、中世史の権威の高柳光壽先生です。『足利尊氏』(春秋社、一九六六年)という本に書いています。
関東武士が頼朝の下に集まった理由
源頼朝はなぜ天皇に取って代わらなかったのか? 日本史だけを見ていると当たり前に思えますが、外国の歴史に詳しい人が急に日本の歴史を調べると必ずぶち当たる疑問です。
その答えは、頼朝が「貴種」なので武士の支持を得て、権力を握ることができたから、です。
頼朝は以仁王の令旨に応じて挙兵しますが、初陣で負けてから二十年も流人をやってた戦の素人。鎌倉幕府公式記録の『吾妻鏡』によれば、「三島大社の祭礼の日に挙兵しよう」などと「記念日挙兵」を言い出し、側近で舅の北条時政が止めるのも聞かずに「裏道は騎馬が通れないから堂々と大通りを行く」などと、“パレードしながら奇襲作戦”のような戦い方でしたが、伊豆国目代(代官代理)を務めていた平兼隆という田舎武士にビギナーズ・ラックで勝利します。