それはさておき、アメリカ独立革命の思想は「自分たちの財産が政府に奪われそうになったら、力で打ち倒して新たな政府を作ることができる」です。事実、アメリカ人たちは国王の支配を脱し、自分たちの政府を打ち立てました。当然、国王はアメリカ人に増税して、財産を取り上げられません。武装権とか抵抗権(革命権)とも言われます。
これと同じことを五百年早くやったのが、頼朝です。ただし、アメリカ人と違って王様に反逆するのではなく、皇室の権威を利用して。
当時の実質的な政府は、平家です。平家を打倒して、その事実を朝廷に承認してもらう。結果、武士たちの財産を守る。朝廷を倒す必要はありません。日本には革命が要らない理由です。武力で政治を決する世の中だからこそ、君主(皇室)が必要とされた。そんな国、他に聞いたことが無いから、外国の歴史を知ると日本が不思議に思えるのです。
幕府はGHQ、将軍はSCAP
とは言うものの、平家の方も黙って見ていたわけではありません。宮内庁のホームページに掲載されている「天皇系図」を見るとよくわかるのですが、一一八三年から一一八五年までの二年間、二人、天皇がいます。
安徳天皇と後鳥羽天皇(在位一一八三~九八年)です。六十年間ほど放置された南北朝時代(一三三六~九二年)と違って、「東西朝」とも呼ぶべきこちらの時代は二年ほどで終わりましたから後で揉めるようなことにはなりませんでした。
この時に源義経は、三種の神器の一つである草薙の剣の奪還に失敗して失ってしまうという大失態をやらかしています。
そんな時に、朝廷に知恵者がいました。朝廷に重んじられていた僧侶の慈円は史論書『愚管抄』(一二二〇年頃に成立)の中で、「武士のきみの御まもりになりたる世になれば、それにかへてうせたるにや(武士が天皇を守る世になったので、その代わりに草薙の剣は消えたのだろうよ)」と言っています。
ものは言いようです。どこかの国の内閣法制局も裸足で逃げ出す詭弁。ここで教科書的論説に触れておきます。
通説頼朝は平家追討を名目に全国に支配を及ぼしたかったから、追討をゆっくりやりたかった。しかし復讐に燃える義経が平家打倒に邁進。あっという間に平家を滅ぼしたので計算が狂い、色々とやらかしを繰り返す義経を全国に追い回す方針に切り替えた。
そんなに上手くいくかなあ……?
早すぎた平家討伐
それはさておき、真面目に教養として知っておいた方が良いこととして、「勧進帳」の話があります。
山伏に姿を変えた義経一行が加賀国安宅関という今の石川県にある関所で疑われる。そこで部下の弁慶が白紙の勧進帳を朗読、なおも疑われたので義経を暴行。関守はすべてを知りながら、義経一行を見逃してやる、という話です。