捨てられる「緩衝材」を製造する、日本唯一の専業工場
贈り物を交わす機会が多い年の瀬。高級フルーツやお酒といったギフトの箱やケースに糸のように敷き詰められている細く削られた木を何というかご存じだろうか。
その資材の名は「もくめん」。
生鮮品や瓶を外部の衝撃から守る、木材由来の緩衝材だ。明治天皇に献上する果物に使用したことが始まりとされ、専業もくめん業者が120社ほどあった1960年頃の高度経済成長期に製造ピークを迎えた。現在は“プチプチ”など安価な緩衝材が台頭し、もくめんは衰退の一途を辿っている。
厳しい時代のなか、今後ももくめんを製造していくと決めた日本で唯一の専業工場がある。高知県土佐市にある戸田商行だ。
経営を担うのは戸田実知子さん(58)。25歳で跡継ぎの長男の嫁になり、経営危機の状況下かつ夫の政治家転身をきっかけに、取締役社長を名乗る覚悟を決めたという。経営の知識はゼロ。その後社内トラブルを乗り越えた上、衰退産業にもかかわらず8年かけて売り上げを1.5倍に回復させ、、晴れて3代目代表取締役を引き継いだ。
戸田さんはなぜ衰退産業を引き継ぐことを決心したのか。どう未来へ繋げていくのか。取材すると、戸田さんの並々ならぬ試行錯誤の道のりがあった。
「なんの取り柄もなかった」学生時代から、大手建設会社の社長秘書に
戸田さんは、1966年「丙午」に生まれた。「火災の多い年」「この年に生まれた女性は気性が激しく、夫を死なせる」といった根拠不明な迷信があり、出生率は大幅に低下。「競争を知らない世代で、のびのびとした環境に育った」という。
当時は、地元短大→コネで地元企業に入社→数年後に結婚して寿退社、が女性の人生すごろくの理想的なキャリアで、戸田さんはこの価値観を疑うことなく、社会が作ったレールに沿ったルートを歩んだ。
短大卒業後は、生コン業経営を軌道に乗せた父のコネで、当時四国で最大手の建設会社に就職が決まった。しかし、顔合わせの面談でかけられた言葉にショックを受ける。
「『もし入社までによその会社に決まることがあれば、どこでも行ってくれて構いませんからね』と言われました。あなたの代わりはいくらでもいると戦力外通告を受けた心地になり、打ちひしがれて家に帰りました」
なんの取り柄もなく、努力もせずに入社したのだから、そんな心ない言葉も当然かもしれない……。そう自分に言い聞かせたが、戸田さんの中にあった「全力でやってやる」のスイッチが入った。
「私は絶対、会社にとって有益な人材になる」
業務は、工事部の総務的な事務全般。誰よりも早く電話に出て、迅速に書類作成をした。3年後、最も気が利く女性が配属される秘書室に抜擢された。まさに有言実行。新人時代の無念を晴らした瞬間だった。その後も、社長の側近役を担いながら、経営者としての振る舞いやマインドに触れた。
1992年、25歳で結婚するのと同時に退社。その後、夫の両親が営む戸田商行を夫婦で引き継いだ。これが、戸田さんが築いたキャリアの第二章の幕開けとなった。