「独眼竜政宗」で描かれたシーンの真贋

たしかに、「悪人」という呼び名がしっくりくるような調略の数々だといえる。だが、考えてみると、いずれも敵味方ともに被害がもっとも小さい方法で攻略している、と言い換えることもできる。まともに攻めていたら多大な人的被害が出るところを、敵の大将が殺されるだけで済んでいるのである。

最上義光研究の第一人者である片桐繁雄氏は、次のように述べている。「戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである」(最上義光歴史館「最上義光のこと♯4」

また、義光の「残虐非道」のイメージが決定的になった白鳥長久の謀殺も、最近、新事実が唱えられている。長久から「自分が出羽の主だ」と身分を偽った書状を受けとった織田信長が激怒し、義光に「即刻滅ぼせ」と指示したのだという。

義光は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、24万石の領土を安堵されている。その少し前に、伊達輝宗に嫁いで政宗を産んだ妹の義姫を利用して、政宗の弟を殺害し、政宗自身の毒殺をも図ったという説がある。これもまた義光が「悪人」と呼ばれる所以の一つで、「独眼竜政宗」でも強調されたエピソードである。

だが、これもいまでは否定されている。伊達政宗研究で知られる佐藤憲一氏の見解は、「政宗毒殺未遂事件と弟小次郎殺害は、小田原参陣という伊達家存亡の重大局面を前に、伊達家の一本化(兄弟争いの根を断ち切る)を図り、小田原で政宗に万が一のことがあっても伊達家が存続できるように、政宗と母が共謀した偽装(狂言)ではないか」というものだ。弟の小次郎も「生きていた可能性が高い」という(「歴史館だより№30」より「続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相」

秀吉を決定的に憎悪した「駒姫」事件

さて、先述のように、義光は秀吉の軍門に下った。その際、直前に父の義守が没したために遅参したが、懇意にしていた徳川家康の執り成しもあって、事なきを得ている。天正20年(1592)の朝鮮出兵に際しては、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出陣するなど、秀吉に忠実に仕えることになった。

ところが、しばらくして義光は秀吉をひどく恨むようになる。端緒は天正19年(1591)、秀吉が天下統一の総仕上げとして行った奥州仕置(東北地方の平定)に反発して起きた、九戸政実の乱だった。秀吉の甥で総大将として奥州に入った豊臣秀次が、義光の娘の駒姫を気に入って、差し出すように執拗に迫ったのだ。

駒姫(最上義光の女、豊臣秀次の側室)の肖像・専称寺所蔵
駒姫(最上義光の女、豊臣秀次の側室)の肖像・専称寺所蔵(写真=SEKIUCHI/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

断っても秀次は引かない。独裁者たる秀吉の後継者の要求を、義光は断ることができず、一定の年齢に秀次に渡す約束をして、文禄4年(1595)に実行された。ところが、その矢先に秀次事件が起きたのである。関白秀次は軟禁された挙句、切腹。その正室や側室、侍女、乳母、それに幼い子供ら39人が斬首された。

駒姫はまだ京都に着いたばかりで、まだ秀次の側室でさえなかったようだが、家康の執り成しで助命嘆願しても受け入れられなかった(助命を受け入れたが、指示が間に合わなかったともいう)。15歳だったと伝わる。駒姫の生母はその2週間後に死去。後を追った可能性がある。義光自身、しばらく食事も喉を通らなかったという。

ところが、大変な被害者であるはずの義光は、秀次との関係を疑われ、しばらく謹慎処分を受ける。これで義光の秀吉への憎悪は決定的になったようだ。