家康に評価された「北の関ヶ原」での功績
文禄5年(1596)閏7月、慶長伏見地震が発生すると、義光は秀吉ではなく家康の護衛に駆けつけ、その後も同様の行動を繰り返した。慶長5年(1600)、家康が上杉景勝を討つべく会津討伐に出陣すると、奥羽地方の大名たちを先導するように家康に味方している。
その後、石田三成らが挙兵して家康らが西上すると、義光らは奥羽に残って上杉勢を牽制する役目を負った。そして、上杉群を会津地方(福島県西部)まで押し戻し、この戦功で出羽国を中心とした57万石の大大名にのし上がった。
上杉を牽制した戦いでの功績は、関ヶ原の戦いでの奮闘よりもずっと価値があるという見方がある。そもそも「天下分け目の戦い」は上杉征伐からはじまり、家康軍は会津に向かっていた。ところが、三成らが挙兵したので西に急ぐ必要が生じたが、もし東から上杉が西上したら、家康たちはきわめて危険な状況にさらされる。
実際、上杉景勝は直江兼続を大将に3万の兵を率いさせた。一方、最上軍は1万程度だったが、このころには同じ東軍として友好関係にあった伊達の援軍も得て、上杉軍をまったく前進させなかったのである。
「悪人」評の根源になった「調略」の数々を記したが、種々の策を用いて、最小限の被害で敵を負かしてきたのは、最上義光が戦巧者だったからだ。また、たんに残忍なだけであったら、家臣たちも、従属させられた国人たちも、義光についてこなかっただろう。実際、義光には人徳があり、家臣の人望が厚かったと伝わる。
状況に応じて、被害を最小限にとどめる策を講じる。生きるか死ぬかの戦国の世だから、時に「悪人」と評される策も必要だっただろう。それもふくめての戦巧者で、家康への誠実さも隠さなかったから、家康に信頼されたのである。