「父を敵にし、弟を殺した」は本当か

『角川新版日本史辞典』には「山形城を本拠とし、対立する一族・国人を滅ぼして戦国大名に成長」と記述されているが、要は、それが具体的にどういう成長ぶりだったのか、である。

最上家は代々、室町幕府から出羽国を統括する羽州探題を任されていたが、次第に衰退して、伊達家に従属するようになった。だが、天文11年(1542)から続いた伊達家の内乱(天文の乱)に乗じて独立を回復し、周囲の国人らと同盟を結んで勢力を伸ばした。そのころ最上家10代、義守の長男として生まれたのが最上義光だった。

元服前から巨漢で並はずれた力持ちで、16歳のとき蔵王温泉で、200キロ近い石を持ち上げたという伝説も残されている。

そのあたりまではいいのだが、家督を継いだ元亀2年(1571)の少し前から、父の義守との争いが生じている。原因は諸説あるが、実父と争ったという事実は、義光を「悪人」と評価する端緒になった。このときは病身にあった重臣の氏家定直の必死の説得で、和解にたどり着いている。

この父子の確執については、父の義守が次男の中野義時を後継にしようとしたためだという説がある。その延長で、最上家の分裂をねらう伊達政宗の父の輝宗が義時につくなどして混乱した末、義光は義時を攻めて自害させた、ともいわれる。

父を敵にしたばかりか弟を殺したのか――。そんな話だが、具体的な史料に欠け、現在では義時という弟が存在したかどうかもふくめ、信憑性がかなり疑われている。

見舞いに来た息子の義父を斬殺

では、義光はいかに「調略に長じ」ていたのだろうか。すでに家督を継ぐ前に、妹の義姫が伊達輝宗のもとへ嫁ぎ、伊達家との関係は修復に向かっていた。しかし、国人連合(最上八楯)の中心にいた天童氏のほか、上山氏といった領主たちは義光に従ってはいなかったので、そのために戦いを繰り広げた。

たとえば、天正8年(1580)に上山城(山形県上山市)に上山満兼を攻めた際は、上山家の重臣だった里見義近や民部に、内応すれば上山家の所領をあたえると誘って、民部に満兼を殺させて上山城を手にしている。

同11年(1583)、尾浦城(山形県鶴岡市)に大宝寺義氏を攻めた際も、大宝寺家の家臣だった東禅寺義長を調略し、義氏を攻めさせ、自刃させている。

同12年(1584)、谷地城(山形県河北町)の白鳥長久に対したときは、さらに手が込んでいた。まず義光の嫡男である義康の正室として、長久の娘を迎えて縁戚関係を結び、長久を油断させた。そのうえで、自分自身が重病を患ったと噂を流し、長久を山形城に見舞いに来させた。その長久を義光は、おもむろに病床から起き上がって、みずから殺害したというのである。