戦国時代の武将、藤堂高虎とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「元は秀吉配下の武将だったが、途中で家康に傾倒した。彼のために下僕のように働いたことから、外様ながら譜代大名のような待遇を受けた」という――。(第3回)
※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
家康が伊賀上野城を建てさせた目的
藤堂高虎は、伊賀上野城の本丸に、五重の天守を建造し始めた。当初は今治城の天守を移築する予定だったが、幕府の丹波亀山城に寄進したので新築することになったのだ。
高さは天守台を含めて34メートルを予定していたという。30メートルの高石垣で囲まれた本丸の上に立てるのだから、優に60メートルを超える。いまでいえば20階建てぐらいのビルに相当する。
一説には、大坂城の豊臣方を威圧する目的があったという。伊賀上野城の天守は、大天守に小台(小天守)を接続させる複合式天守だったらしい。らしいというのは、建設途中で断念してしまったからである。じつは、とんでもないアクシデントに見舞われたのである。
慶長17年(1612)9月2日、作事(普請)は順調に進んで天守はほぼ完成し、五重目の瓦を葺き終えたところだった。だがこの日、伊賀上野周辺がにわかな大風雨に見舞われたのである。
城普請を統括していた奉行の石田清兵衛は、できるだけ天守の破損を防ごうと、大工や職人たち数十人を指揮して懸命の作業をおこなっていた。しかし、風雨はますます強まり、とうとう天守の三重目を吹き崩し、そのまま建物は東南方向に倒壊してしまったのだ。