画期的な城下町
一階と二階部分は残存していたというから、真ん中(三階)から折れて吹き飛んだのだろう。倒壊したさい、その振動や音は数里先まで聞こえて、近隣の住民を驚愕させたという。それだけではない。この事故で多くの犠牲者が出てしまったのだ。なんと180人が亡くなり、多数が負傷したと伝えられる。
しかも、このとき天守に上がっていた作事奉行の平松喜蔵は転落死している。石田清兵衛も天守におり、15メートルほど吹き飛ばされて墜落したが、傘を持っていたのでどうにか死は免れた。ただ、このときの事故で負傷し、一生身体が不自由になってしまったという。
天守倒壊後、高虎が新たに天守を建てることはなかった。一説には、わざと豊臣方を安心させるために崩したとか、巨大な天守をつくって徳川方に疑われぬよう取り壊したという説もあるが、さすがにそれはあり得ないだろう。
伊賀上野には新たに城下町を造成したが、これにも高虎の特色がよく出ているという。
研究者の藤田達生氏は、「高虎の城下町の特徴は、非常に幅の広い道路を何本か並行して直線的に通し、それに何本か街路を直行させていくという面的な広がりを持つ都市設計に求められる。これは今治城下町で確認されるが、転封によってさらに明瞭となった。たとえば上野城下町では本町筋を四間幅(約7.2メートル)、二之町筋・三之町筋を三間幅としている。整然とした開放的なプランを実現し、人と物の集まりやすい環境をつくることによって、商工業の発展を支えたのである」(「藤堂高虎の城づくり・町づくり―今治から津へ―」藤堂高虎公入府四百年記念特別展覧会『藤堂高虎その生涯と津の町の発展~』津市・津市教育委員会編所収)と述べている。
津城をリフォームする
伊賀上野城は家康のための城なので、高虎は伊勢国津(安濃津)に自分の居城をつくり始めた。その名からわかるとおり、津は平安時代から栄えた港町であり、もともと小規模な城が存在した。その後、このあたりは織田信包(信長の弟)の領地となり、さらに秀吉時代に富田知信(一白)が入城している。
そんな津城を高虎が大規模に改修して居城としたのである。とはいえ、藤田達生氏によれば、「それまでの城郭を潰したり移転したりして立派なものにつくり変えるということはせずに、既にあるものを使ってどこまで拡大できるのかということに挑戦したようだ。したがって、天守や本丸はできるだけ活かしたものとなっている」(藤田達生著『江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎』講談社現代新書)とある。
事実、本丸を北側と東側に広げて高虎が好む正方形にしたが、内堀の中に一直線に西の丸、本丸、東の丸が並ぶ(連郭式)形状は富田氏時代からのものだといわれる。石垣も犬走りがあるところと、ないところがあり、犬走りを有する箇所は富田氏時代のものと考えられ、それをそのまま使用したらしい。