豊臣秀吉とはどんな人物だったのか。歴史作家の河合敦さんは「築城の才があるだけでなく、城攻めも得意だった。特に鳥取城の籠城戦は戦国史に残るすさまじい戦いだった」という――。(第1回)

※本稿は、河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

狩野随川作、豊臣秀吉画像
狩野随川作、豊臣秀吉画像(写真=名古屋市秀吉清正記念館蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

歴史作家が感服する秀吉の根気強さ

秀吉は築城の才があるだけでなく、城攻めも得意とした。中国平定戦でも巧みな攻城戦で次々と敵を屈服させていった。なかでも「三木の干殺し」「鳥取城の渇え殺し」「備中高松城の水攻め」は、日本の戦史上、刮目に値する戦いだとされる。

月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」
月岡芳年画「高松城水攻築堤の図」(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉は戦よりも調略(事前工作や外交戦)を重視した。敵地の民情や家臣団の人間関係などを把握したうえで、甘言をもって誘降し、あるいは内部分裂を誘って自滅させるのを得意とした。

天正5年、そうした調略によって秀吉は難なく播磨を平定したが、翌6年2月に三木城主の別所長治が毛利氏に応じて叛旗を翻すと、今度は10月に織田家重臣の摂津国有岡城主・荒木村重が反乱をおこした。結果、播磨国内の国衆もほとんど毛利方になってしまった。

秀吉は、背いた三木城の周囲に柵や塀を幾重にも構築して城方の動きを封じ、30以上ある別所氏の支城を各個撃破する根気強い戦術をとった。結果、三木城内は食糧が尽きて飢え死にする者も現れたので、城主の別所長治は、自分と弟、叔父の命と引き換えに城兵の助命を秀吉に求めた。

秀吉はそれを了承し籠城戦は終わりを告げたが、終戦は籠城開始から2年後の天正8年正月のことであった。通常なら焦燥感に駆られて力攻めにしてしかるべきだが、秀吉の根気強さには感心する。