ネズミ一匹通さない包囲網

鳥取城から1.5キロ離れた場所に、城と同じくらいの高さの山(252メートル)がある。秀吉は鳥取城下に着陣すると、ここに登って敵の城を眺めたあと、この山(本陣山)を本陣と定めて陣城(太閤ヶ平たいこうがなる)を築いた。

太閤ヶ平は「大規模な土塁・櫓台で囲まれた方形の区画(内法=東西約58m・南北約58m)で、さらにその土塁の裾を大規模な横堀がほぼ全周する堅固な要塞」(西尾孝昌・細田隆博著「太閤ヶ平」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何か その成果と課題』所収サンライズ出版)であった。

秀吉はその後、太閤ヶ平を中心に深さ8メートルにも及ぶ空堀を総延長12キロにわたって鳥取城の周囲に掘り回し、頑強な塀や柵を何重にも築いたうえ、約70の砦を設けた。そして1キロごとに3階建ての櫓を建て、騎馬武者20人、射手100人を配置し、500メートルごとに番所を設け、50名を入れて監視させたという。

また、毛利の援軍を警戒し、自軍の背後にも堀を掘り、柵を構築し、遠くからの矢が当たらないよう、高い土塁を築かせた。さらに、水路での敵方の兵糧輸送や城兵の脱出を防ぐため、海上に警護船を浮かべ、千代川や袋川に乱杭を打ち、縄を張り巡らした。

籠城兵を精神的に追い詰める

こうして包囲陣が完成すると、鳥取城と中継の出城・要害との連絡は完全に絶たれた。秀吉は海辺の集落を容赦なく焼き払い、夜になると、無数の提灯や松明で鳥取城の周囲を照らし、昼間のように明るくした。

そして昼夜の別なく鐘や太鼓を叩き、あるいは鬨の声をあげさせ、城内に鉄砲や火矢をふいに放って不安を煽り立てた。このため、恐怖におびえて安眠できず、精神的に滅入ってしまう城兵が続出した。

また、制海権を握った秀吉は、丹波や但馬から自由に船で兵糧を運ばせ、城内が飢えているのをいいことに、これ見よがしに多数の商人を城外に呼び集め、市を開いて食べ物を売買させたり、都から芸人を招いて盛大に歌舞を演じさせたりした。大いに城内の厭戦気分を煽ったのである。

このどんちゃん騒ぎは、部下のためでもあった。長陣は兵をませるので、市を開いたり芸人を招いたりしたのだ。さらに秀吉自身が駕籠に乗って1日2度も陣中を見て回り、現場の軽輩に気安く声をかけて励ましたという。このため羽柴軍は常に活気と明るさに包まれ、長期戦による弛緩を感じさせなかったと伝えられる。