究極の心理戦術「鳥取城の渇え殺し」とは

秀吉の鳥取城攻め(鳥取城の渇え殺し)を『信長公記』や江戸中期に書かれた香川景継の『陰徳太平記』(史料的価値は低い)などを参考に詳述していこう。

鳥取城主の山名豊国は、織田氏と毛利氏とのはざまで去就を決めかねていたが、天正8年(1580)、秀吉が大軍で鳥取城下に迫り、「織田に臣従するなら因幡一国を安堵するが、逆らえば人質を全て殺す」と伝えてきた。

このため豊国は、家臣の反対を押し切って織田方に降ってしまった。そこで秀吉は包囲を解いて帰陣するが、『陰徳太平記』によると、それからしばらくして山名氏の重臣が豊国を説得して翻意させたという。

これを知った秀吉は、鳥取城下で人質を木に縛り付けて次々と殺害し、豊国の愛娘も磔にしようとしたのだ。驚いた豊国は、娘を救おうと城を脱して秀吉のもとへ駆け込んでしまったといわれる。一説には、豊国が秀吉に降伏しようとしたので、重臣たちが鳥取城から主君を追放したともいう。

いずれにせよ、山名の重臣たちは主君の豊国に追従せず、毛利方に臣従を誓い、鳥取城に城将の派遣を要請した。そこで毛利輝元は、重臣の吉川経家を遣わしたのである。

鳥取城の離反を知った秀吉はすぐに出陣せず、入念に準備を整えたうえ、天正9年6月になってから兵2万人を率いて出立した。峻険な山城である鳥取城を力攻めにするのは難しいと判断し、兵糧攻めを企てたのである。

鳥取城 全景
鳥取城 全景(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons

欲に目がくらんで米を売り払った

兵糧攻めの基本は城の包囲を厳重にして糧道を完全に断つことだが、これに加えて秀吉は、城内の食糧を奪うこと、兵糧を早く消費させることにまんまと成功した。

出発に先立って秀吉は、若狭国の商船を雇い入れ、鳥取城のある因幡国へ遣わし、米などの穀物を時価の数倍で買い集めさせたのだ。若狭の商人を用いたのは、自分の仕業だと悟られないためだった。

このため、鳥取城周辺の農民は喜んで米穀を売り、鳥取城の兵までもが、欲に目が眩んで城米を売り払った。結果、戦う前から鳥取城の兵糧は払底していた。

さらに秀吉は、鳥取城下の領民たちに故意に危害や圧迫を加え、彼らが城へ避難するよう追い立てたのである。こうして、城内人口は4000に膨れ上がったが、うち半数は非戦闘員。彼らは戦の役に立たぬばかりか、兵と同量の飯を食うため、籠城戦が始まるとすぐに食糧が足りなくなった。

標高263メートルの久松山にある鳥取城は、四方が険しい地形になっており、北から西にかけて蒼海が広がっている。近く流れる大河(千代川)の岸辺(城から二十町離れた地点)には出城が置かれ、河口にも要害が築かれていた。この出城と要害は、安芸から水路で味方(毛利軍)を鳥取城に引き入れるためにつくられたものだった。