「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」
高さも伊賀上野城のように高くはないが、やはり反りがない点では高虎式の特徴を備えている。だだっ広い水堀も、高虎が大きく拡幅したのだろう。なんと本丸の南側の堀は幅100メートル、北側の堀は幅70メートルもあった。これが津城最大の特徴だといえ、とても泳いで渡れるものではない。
本丸の天守も富田知信がつくった三重天守をそのまま使い、それに二重の小天守を連結したとされる。ただ、本丸には新たに三重櫓を二棟、二重櫓を三棟つくり、周囲を多門櫓(計約450メートル)で囲み、東西には枡形虎口をつくっている。こうした構造は高虎が好む手法であった。
そんな内堀全体を囲むかたち(輪郭式と呼ぶ)で二の丸が置かれ、外堀がうがたれ、その外側に城下町がつくられた。さらに城下町の北と南は河川をもって防御とし、西側には湿地帯をそのまま残して敵の襲来を防いだのである。
なお、伊勢街道(参宮街道)を曲げて城下町に引き入れ、町を繁栄させようとした。じっさいのちに「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ」といわれるようになった。伊勢国は津という港町があるので伊勢神宮には参拝客が多く、一方、津の港は神宮へお参りする参拝客が使用するので栄えるという意味だ。
下僕のごとく家康に仕える
伊賀上野城と津城の完成前に、徳川と豊臣の武力衝突が始まってしまった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣である。高虎も先鋒として参戦したが、大坂城内からは連日、高虎の陣へ激しい罵声があびせかけられたという。
秀吉の寵愛を受け大禄を与えられたのに、死後すぐに家康に取り入って伊予半国の大大名に栄達し、まるで徳川の家来のようにその権力強化のために尽力し、大坂城を圧迫する堅城を次々につくっているからだ。恨まれて当然であろう。
冬の陣で先鋒となった高虎だが、翌元和元年(1615)の夏の陣でも井伊直孝とともに先陣に選ばれている。ただ、さしたる戦闘を経験しなかった冬の陣と比較し、夏の陣は大変な試練となった。
八尾という大坂城南東8キロ地点において、長宗我部盛親軍と激突したのだ。
高虎は、敵が臨戦態勢を整える前に突撃して蹴散らそうと試みたが、八尾が湿地帯で急進が困難なうえ、長宗我部盛親軍がよく持ちこたえたので、結果として死闘となった。最後はどうにか長宗我部盛親軍を撃退できたものの、重臣の藤堂高刑や藤堂氏勝を含む300騎を失う大損害を被り、軍として再起不能に陥った。
そのため翌日は、先鋒辞退を申し出ざるを得なかった。しかし戦後、この奮戦を評価され、参戦武将としては最高の五万石を与えられた。