織田信長には「織田四天王」など多くの武将が仕えたが、中でも10代のころから活躍したのが、前田利家だ。作家・海音寺潮五郎さんの著書『武将列伝 戦国爛熟篇』(朝日文庫)より、信長と利家をめぐるエピソードを紹介する――。
愛知県名古屋市中川区のあおなみ線荒子駅前ロータリーに展示されている前田利家の像
愛知県名古屋市中川区のあおなみ線荒子駅前ロータリーに展示されている前田利家の像(画像=Gnsin/CC-BY-SA-3.0/Wikipedia

信長と利家は男色関係だった?

利家は天文7年に生まれて、幼名を犬千代といった。天文7年は戊戌つちのえいぬ年である。生まれ年の干支によってつけられたのである。成長するにつれて孫四郎、ついで又左衛門と改名する。

加賀藩に伝える「亜相公御夜話」に、利家は14の時にはじめて信長に奉公に出、その年8月に具足の着初きぞめをし、間もなく初陣して功名を立てたと、利家が語ったと書いてある。つづいて、15歳の時から「信長公ご秘蔵にて、一時もおんはなれなくご奉公とのよしのこと」とある。これは信長と男色関係が出来たという意味だ。

このことについては、この書の他の項に、こうあるのをもっても明らかだ。

「利家公は鶴の吸物を食べられると、いつも腹が痛くなられた。どうしてこんな風になったかのわけをお聞かせになったことがあるが、それはこうだ。信長公が安土城で諸大名を饗応されたことがある。鶴の吸物が中心の献立となっている上に、信長公がおんみずから引きものを供して下さるというほどの丁重な饗応であった。信長公は主賓の柴田勝家から引きものをはじめられたが、柴田の前では、

『そちをはじめ皆の者がよく働いて手柄を立ててくれた故、今日わしはこうして天下とりとなることが出来た。まことに満足である』

といわれ、以下次ぎ次ぎにそれぞれにことばをかけつつ引きものを供して来られたが、わしの前に来られると、

『この男は少年の頃はおれが側に寝せたのだ。まことに秘蔵での』

と、笑いながら申された。その頃わしは大ひげを生やしていたが、そのひげをおつかみになって、『稲生いのう合戦は、おれは二十一、その方は十六、七の時であったが、その方は敵の勇士宮井勘兵衛という者を討取って首を上げた。おれはその首を馬上にてさし上げ、犬千代は小せがれながら、このような手柄を立てたぞ。これ見よ、者共。皆々負けずにはげめ! と、呼ばわって、采配振ったところ、味方は勇気百倍し、味方はわずかに七、八百、敵は三、四千の大軍であったに、ひたおしにおして攻め崩したわ。その方共が皆このように手柄を立ててくれた故に、おれは今日の身分になれたのだぞ』

と、おほめ下されたところ、給仕の衆はもとよりのこと、ご近習衆まで、

『さてもさても、武士の冥加にかないたる又左殿かな。あやかりとうござる』

というて、争うて吸物を給仕してくれるので、わしもうれしゅうなって、いくらでも食うた。そのために食傷してのう。その後は鶴の吸物を食えば腹が痛うなる、というてお笑いになった。このことは太閤様も度々仰せられ、金森法印・羽柴下総殿もよく利家公ご前で申された云々」

色々な点でおもしろい話なので、長々と紹介したが、少年の頃、利家が信長の寵童であったことはまぎれがない。