織田信長が本能寺直前まで最も信頼していた家臣は誰だったのか。歴史学者の渡邊大門氏は「武田氏討伐後、信長が明智光秀を冷遇したという説は広く知られている。だが、その見方には無理がある。光秀こそ最も信頼された実務家だった可能性が高い」という――。(第1回)
※本稿は、渡邊大門『論争 本能寺の変』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
信長に同行した「関東見物」の真実
次に、武田氏討伐後における光秀の処遇をめぐって、本当に信長家臣団の中で出世競争に敗れたのか確認しておこう。
天正10年(1582)、突如として信濃の木曽義昌が武田勝頼を裏切り、織田信長方に寝返った。
義昌は、武田氏の親類衆だった。驚いた勝頼は義昌を討つため、1万5000の兵を遣わした。
勝頼の出陣を知った義昌は、信長に援軍の要請を行うと、信長は嫡男の信忠を先鋒とする軍勢を派遣したのである。
同年2月、光秀は甲斐への出陣準備を命じられた(『信長公記』)。同年3月、信長は光秀、筒井順慶、細川藤孝らを引き連れて、安土城(滋賀県近江八幡市)から甲斐国へ向かったのである。
信長が甲斐国に向かったのは武田軍を討つためではなく、勝利を確信したうえでの「関東見物」だった(『古今消息集』)。公家の近衛前久が同道していたのは、その証左である。武田氏が滅亡したとき、信長は信濃国境すら越えておらず、美濃国の岩村城(岐阜県恵那市)に滞在中だった。

