NHK「豊臣兄弟!」では、毛利勢に囲まれた上月城を救援に向かった秀吉が撤退し、城を守る尼子勝久が切腹するシーンが描かれる。かつて中国地方の大半を治めた尼子氏の末裔・勝久は、なぜ不憫な最期を迎えたのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。

毛利に敗れた“中国地方の名門・尼子氏”

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。6月7日放送の第22回「播磨大誤算」では、上月城の救援に向かった秀吉(池松壮亮)が、信長(小栗旬)の三木城攻略を優先すべしという命に従って涙の撤退。かくして、家名の再興を願っていた尼子勝久(渡邉蒼)は切腹、山中幸盛(廣瀬友祐)は護送中に討ち取られることとなる……。

三木合戦、そして軍師たる半兵衛(菅田将暉)の病死へと続く物語の中で割かれる時間は多くなさそうなこのエピソードだが、戦国時代を愛好する者なら知らぬ者はいないものだ。

三木城 復興塀
三木城 復興塀(画像=ブレイズマン/PD-self/Wikimedia Commons

尼子氏といえば、かつては中国地方に覇を唱えた名門である。出雲を本拠に、経久の最盛期には山陰・山陽11カ国に勢力を広げたが、毛利元就の前に屈し1566年、当主・義久が月山富田城を開城して降伏。名門はここに滅んだ。この後、長年にわたって幽閉された義久だったが、その後は許されて毛利氏の家臣に。江戸時代にも子孫は代々毛利氏に仕え、家系は現代まで続いている。

しかし‼ この名族の没落をよしとしなかった人々がいた。それが、山中幸盛らの家臣団であった。一時は浪人となった山中幸盛は、京都の東福寺で僧をしていた尼子誠久(経久の次男・国久の嫡男)の遺児・勝久を還俗させ、旗印として挙兵した。この挙兵は三度にわたっており、信長を頼ったのは三度目の挙兵でのことである。

ここで秀吉が手に入れた上月城を任されたのだが、毛利氏の逆襲において、援軍はこなかった。こうして、勝久は家臣らに感謝の言葉を述べて切腹。幸盛は、なおも捕虜となり生き延びるが、護送中に謀殺され夢は潰えたのであった……。

【図表1】尼子氏の系図
尼子氏の系図

盛られている「勝久と幸盛のエピソード」

こうした逸話をもとに幸盛は山中鹿介の名前で忠臣の鑑として語り継がれてきた(幸盛、鹿之助など呼称が様々だが、ここから先は引用を除いて鹿介で統一する)。

とりわけ彼が三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は有名だが、これは江戸時代初期の小瀬甫庵が記した『太閤記』に始まり、戦前に教科書に掲載されて広まったものである。

そもそも彼を筆頭に再興に尽くした者たちを「尼子十勇士」などとも呼称するが、これもまた後代になって物語として広まる中で確立されたもの。真田十勇士などと同じく、ほとんどフィクションに過ぎない。

感動ポイントである上月城の落城で勝久が感謝を述べて切腹したというくだりもまた後付けエピソードの一つだ。こうした再興運動を詳細に記しているのは『陰徳太平記』という史料。この史料、よく読むと色々とおかしい。例えば、上月城落城の部分は「上月城没落附勝久自害事」として次のように記されている。

諸士共を召し集め、各近年雪苦霜辛して身骨を碎き、所々に於て忠戦を抽んで、此度も籠城堅固の志、返す返す有り難くこそ候へ、予一度本望を達しなば、面々にも日来の忠志を報ゆべきに、弓折れ勢ひ傾き、有此有様となれば、行く末は栄養の春に値はるべきこそとて、金銀太刀鎧等を取出させ、是は勝久が無からん後の信ともし給へとて、其々に分ち与へられけるこそ、実に実に一度尼子の武将に備り給ひたるも理り哉と、皆人袂ぞ搾りける。

[早稲田大学編輯部 編『通俗日本全史 第14巻 陰徳太平記(香川正矩編 尭真補遺)』早稲田大学出版部、1913年]