中国の歴代皇帝を支えた「後宮」の女性たちは、どのような暮らしをしていたのか。中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、北宋が滅亡する契機となった事件の渦中にいた女性皇族たちの顛末を紹介する――。

中国・北宋で起きた前代未聞の拉致事件

1127年金国の軍勢が宋(北宋)の都・開封を占領し、宋の上皇徽宗きそうと皇帝欽宗きんそうをはじめ、皇后・皇族3000余名を捕らえ拉致したとされる靖康の変は有名な事件で、関連の書籍も多い。

徽宗
写真=Wikimedia Commons
宋の上皇徽宗(国立故宮博物院蔵/PD US expired/Wikimedia Commons

漫画家の青木朋氏が連載中の『天上恋歌〜金の皇女と火の薬師〜』は、靖康の変の前後の宮廷を舞台に金の皇女が活躍する歴史コミックだが、歴史の勘所をおさえ、金の側の言い分や視点も取り込んだ傑作である。

紙数の都合上、詳細は他書にゆずり、ここでは靖康の変で運命が激変した皇后たちを取り上げよう。

徽宗は結局、金軍に献上するため大規模な後宮を構えたようなものだが、彼が70人も子女をもうけたことは、王朝存続の保険としては意味があった。

徽宗や欽宗の二帝以下の皇族が金に連行されたとき、徽宗の九男であった康王趙構は、奇跡的に難を逃れていた。ただし、趙構の生母韋氏も、妻の●(けい)氏も、彼の娘も金に連行されてしまっていた。

※けいの漢字は开におおざと

金は当初、領土に対する執着は薄かった。金軍は宋に傀儡国家を残し、北に撤収していく。傀儡国家「大楚」の皇帝には、北宋の宰相・張邦昌ちょうほうしょうがなったが、彼は愛国者だった。金軍が撤収すると、彼はすぐさま帝位を返上した。そして、民間から元祐皇后孟氏を迎えて垂簾聴政(※)を行ってもらった。

※皇后・皇太后が幼い皇帝の代わりに摂政を行うこと

哲宗の皇后だった孟氏はすでに廃され、失脚していた。靖康の変のとき、彼女は都を離れて実家に引きこもっていたため、無事だったのだ。

元祐皇后孟氏は、康王趙構を皇帝に指名する。趙構は即位し、南宋の初代皇帝・高宗となった。孟氏は高宗の生母ではなかったが、皇太后として尊ばれた。張邦昌は、宋の復国のシナリオを作成して実行した功労者であったが、金軍のもとで帝位を僭称した罪を弾劾され、自殺を命じられた。

もし靖康の変がなければ、孟氏が奇跡のカムバックを果たすことはなかったろう。

皇帝の母と妻は、敵国で辱めを受けた

靖康の変では、高宗(変の当時はまだ康王趙構)の母と妻子も金軍に捕まっている。趙構の生母で徽宗の側妃だった韋氏(後の顕仁皇后。1080年‐1159年)、趙構の正妻・●秉懿(けいひょうい・後の憲節皇后。1106年‐1139年)と側室の田春羅でんしゅんら姜酔媚きょうすいび、4歳から2歳までの女児5名、あわせて9名の女性が金軍によって連行された。

金軍の北送の旅路は過酷だった。趙構の妻・●氏も含め、妊娠中だった皇室の女性は次々に落馬して流産した。趙構の5人の娘のうち、下の3人は旅の途中で死んだ。

旅路の途中も、金国に到着してからも、貴婦人らは金人から言いようのない辱めを受けた。欽宗の美貌の皇后・仁懷皇后朱氏(1102年‐1127年)は金に到着後、屈辱に耐えきれず自殺した。