“感動エピ=脚色”と考えるのが自然
実に感動的な場面だが、『陰徳太平記』は、江戸時代に吉川広家の命で吉川老臣の二宮俊実と森脇春方が記した覚書をまとめた『安西軍策』を典拠として、岩国藩家老・香川正矩が著した『陰徳記』を、正矩の次男・宣阿が再編したもので、1717年に出版されている。正直なところ、正確なエピソードとは言い難い。
別の史料も見てみよう。文禄年間に成立したとされる『義残後覚』は実在の大名や武将が登場する武辺話を中心に、怪談・奇談・笑話・風俗記録など多岐にわたる逸話集(土井大介「山中鹿介異聞 : 『義残後覚』に見る「戦国咄」のありかた」『藝文研究』第95巻、慶應義塾大学藝文学会)だが「毛利家軍勢上月城を囲む事」という節がある。
ここでは、この感動エピソードは完全に除外され、こんな風に書かれている。
信長公御馬を出され候はではかなひがたかるべき評定にて、「さあらば上月の城を捨てよ」とて、尽く人数を引き払ひ給ふ。山中鹿介、一命をなだめられて城を出でにける。上月兄弟は自害をしてぞ失せにける。(『義残後覚』(肥前島原松平文庫所蔵) 出典:国書データベース,https://doi.org/10.20730/100224161)
明らかなのは信長が援軍に来なかったため、勝久が切腹する一方で鹿介は降伏したということ。つまり、あとの感動エピソードは、なにか生き残りに聞いた話が伝聞のうちに脚色されたものと考えるのが自然だろう。
鹿介が「主役」、勝久は「付け足し」
ところが、いずれの史料にも共通しているのは主役がほぼ鹿介になっていること。『陰徳太平記』は落城の後「山中鹿之助最後事」という節が続く。同様に『義残後覚』も次の節は「綿貫左馬介鹿介を討ち給ふ事」である。
『陰徳太平記』で勝久の名前が登場するのは五十数回、鹿介は四十数回である。主君より家臣のほうが登場回数が少ないのは当然だが、注目は見出しの扱いだ。
勝久の死は「上月城没落附勝久自害事」という節に付け足しで収められているのに対し、鹿介の死には「山中鹿之助最後事」という専用の見出しが立ち、最後が独立した別項目になっているのだ。
勝久のほうも『陰徳太平記』をみると「尼子勝久、鹿之助を召して、私部の城明渡すのみか、宗徒の兵森脇、横道已下降人に成ると聞く……」(若佐鬼城落去之事)などと、とにかく主君として能動的には描かれていない。ようは完全に神輿なのだ。
だいたい、鹿介が勝久を還俗させて主君として迎えるくだりが記されている「尼子勝久入雲州附松永霜臺事」の節ですらなかなか勝久が登場しない。延々と、鹿介らの再興運動を中国史の逸話などになぞらえる記述などが続く。秦に滅ぼされていた韓の臣であった張良が、漢の高祖劉邦に仕えて、ついに秦を滅ぼして恨みを晴らした故事などが長々と書かれた後に、ようやく勝久が登場する。

