※本稿は、濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。
光秀は京都で落ち武者狩りを
本能寺の変で信長・信忠を討ち果たした光秀は、落人狩りのため、家々を捜索させた。洛中の町屋に明智の軍勢が踏み込んできたので、都は騒然となった。光秀は信長を討てば多くの者が自分に味方してくれると考えていたかもしれないが、その見通しは甘かった。
「人質を出し、味方せよ」
と勧誘した勢田城主・山岡景隆に「信長公には高恩がある。同意できかねる」と早々に加勢を蹴られている。光秀は、近江から織田方の軍勢が進軍してくるのを恐れ、その日のうちに近江国へと向かう。
安土にいた織田に仕えていた人々は「信長死す」の噂が流れてくると、初めは狐につままれたような顔をしていたが、次第に大混乱となる。信長や信忠の死を嘆き悲しむ者はおらず、皆、自身の進退に汲々とする有様であったという。貴重な道具類もそのままに、妻子のみを連れて、故郷に帰る者が多かった。本能寺の変は、多くの人々に衝撃を与え、混乱の坩堝へと突き落とすことになったのだ。
家康の最大級の危機「伊賀越え」
天正10年(1582)6月2日の朝、徳川家康は、京都に戻るため、堺を出立した。思えば、甲斐の武田氏を織田信長と共に討伐し、駿河国を拝領した御礼のため、穴山梅雪(武田旧臣)と安土に到着したのは、同年5月15日のことであった。それ以来、安土城下での舞や能の観覧、贅を尽くした接待、食事の際は信長自らお膳を据える等の心尽くし。家康も満足したに相違ない。
5月21日、家康は上洛するが、それも信長の「京都・大坂・奈良・堺をゆっくり見物されるが良い」との言葉によるものであった。案内者として、長谷川竹(織田家臣)が同行した。
大坂では、織田信澄(信長の甥)と丹羽長秀が家康をもてなすことになっていた。
家康らが堺に入ったのは、5月29日。6月1日には、茶会が開催され、津田宗及(堺の商人)や松井友閑(堺代官)の接待があった。そして、翌日(2日)、家康は京都に戻るべく堺を出立。するとそこに、驚くべき情報がもたらされたのであった。京都・本能寺にて、織田信長が家臣・明智光秀に襲撃され自害した「本能寺の変」(6月2日)に関する報である。

