家康の強運を表わすエピソード

この場合は、家康の過去の温情が、後年、自らの身を救ったと言えよう。『徳川実紀』には、茶屋清延が土豪に金を与え、道案内させたこと、一揆の者どもが道を遮ったときは、本多忠勝が力を尽くして、これを追い払ったことなどが書かれている。また、同書にも『三河物語』と同じく、家康が伊賀の者に温かく接していたことで、同地の人が助けてくれたことが記載される。

濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックスPLUS新書)
濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックスPLUS新書)

こうして、堺から三河へと無事に帰ることができた家康だが、もし堺に居らず、京都にいたならば、光秀は軍勢を差し向け、家康をも殺していただろう。それを思うと、本能寺の変の際、堺にいたということは、家康の運の強さを示すものかもしれない。

家康は、本気で信長の弔い合戦をするつもりであった。家康は尾張清洲城に逃れていた三法師(信長の孫、後の織田秀信)を擁し、光秀を討つ算段だったようだ。6月14日、尾張国鳴海へ出陣した家康。数日後、そこにまた驚くべき知らせが家康のもとに、届けられることになる。

光秀を討つため帰国後に出陣するも…

13日には、明智光秀自体、既にこの世にいなかった。信長横死を素早く聞きつけた織田家臣・羽柴秀吉が、中国地方の戦場から急遽きゅうきょ引き返し、山崎の戦いで光秀軍を撃破、光秀は落ち延びる途中で落武者狩りにあい、落命したのだ。

同月19日、羽柴秀吉から、上方は平定したので、帰陣してほしいとの通知があったので、家康は浜松に帰ることになる。

家康が帰還した岡崎城(現在)
家康が堺から帰還した岡崎城(現在)(写真=Evelyn-rose/CC-Zero/Wikimedia Commons
【関連記事】
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
サルでもハゲネズミでもない…外見にコンプレックスを抱える秀吉が信長に付けられた「もう一つの呼び名」