家康の強運を表わすエピソード
この場合は、家康の過去の温情が、後年、自らの身を救ったと言えよう。『徳川実紀』には、茶屋清延が土豪に金を与え、道案内させたこと、一揆の者どもが道を遮ったときは、本多忠勝が力を尽くして、これを追い払ったことなどが書かれている。また、同書にも『三河物語』と同じく、家康が伊賀の者に温かく接していたことで、同地の人が助けてくれたことが記載される。
こうして、堺から三河へと無事に帰ることができた家康だが、もし堺に居らず、京都にいたならば、光秀は軍勢を差し向け、家康をも殺していただろう。それを思うと、本能寺の変の際、堺にいたということは、家康の運の強さを示すものかもしれない。
家康は、本気で信長の弔い合戦をするつもりであった。家康は尾張清洲城に逃れていた三法師(信長の孫、後の織田秀信)を擁し、光秀を討つ算段だったようだ。6月14日、尾張国鳴海へ出陣した家康。数日後、そこにまた驚くべき知らせが家康のもとに、届けられることになる。
光秀を討つため帰国後に出陣するも…
13日には、明智光秀自体、既にこの世にいなかった。信長横死を素早く聞きつけた織田家臣・羽柴秀吉が、中国地方の戦場から急遽引き返し、山崎の戦いで光秀軍を撃破、光秀は落ち延びる途中で落武者狩りにあい、落命したのだ。
同月19日、羽柴秀吉から、上方は平定したので、帰陣してほしいとの通知があったので、家康は浜松に帰ることになる。



