穴山梅雪は別行動、落ち武者狩りに

家康は同行していた穴山梅雪(武田旧臣)にも「一緒に帰国しましょう」と誘うが『徳川実紀』によると、梅雪は内心「家康を疑っており」、共に帰ることは拒否。別の道を歩むことになる。『三河物語』にも「梅雪は家康を疑って」と書いている。梅雪は、元来は武田に仕える家臣だったが、信長の甲州征伐が始まると、信長に内応。以降は織田の国衆となっていた。

梅雪が家康の何を疑っていたのかはわからないが、ともかく、家康と別行動をとった。そして哀れにも、落武者狩りにあい、宇治田原(京都府)で討たれてしまう。『三河物語』は、その死を「家康について引き上げていたなら、何事もなかったものを、ご同道されなかったことが不運である」と悼む。

歌川国芳画「甲越勇将伝 武田家廾四将:穴山伊豆守信良(穴山梅雪)」江戸時代(1848年)
歌川国芳画「甲越勇将伝 武田家廾四将:穴山伊豆守信良(穴山梅雪)」江戸時代(1848年)(写真=大英博物館所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

落武者狩りは、家康が本国に帰ることを渋っていた理由の一つである。敗残の将士を討ち取り、鎧・武器・馬などを奪う、あるいは、高名な武将ならばその首を(今回の場合は)明智方に届け、恩賞に預かる者たち。本国に帰るにしても、そうした無頼の徒をうまく避けなければ落命してしまうだろう。家康のこの逃避行が「神君三大危機」の一つに数えられているのはそのためである(他の二つは「三河一向一揆」と「三方原の戦い」)。

あえて伊賀へ、1日68キロ移動

家康は6月2日中には、山城国宇治田原に着く。その日は、山口光広の館に宿泊。堺からの距離は、約52キロメートル。翌日(3日)には、南近江路を通り、信楽(滋賀県甲賀市)に到着。そして、多羅尾光俊の小川城に1泊。この日の移動距離は、約24キロメートルだった。4日には伊賀・伊勢路を通り、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)に出る。この日は、68キロメートル以上移動したという。そこから船で三河国大浜(碧南市)に至り、5日に岡崎城に帰還する。『三河物語』は、この「伊賀越え」について次のように記す。

「家康は伊賀国を通って引き上げた。かつて、信長が伊賀国を攻められたとき、伊賀の国の者どもを皆、殺した。他国へ逃げた者も、捕まえ殺した。だが、家康は三河に落ち延びてきた伊賀の人々を一人も殺すことなく、生活の世話をした。伊賀国にあって、そのときのことを覚えていた者がいて、御恩返しをしなくてはと思い、家康らをお送りした」と。

【図表1】
出典=『家康クライシス』 ※プレジデントオンライン編集部で一部加工