岡山で備中高松城の戦いにあった秀吉は、なぜ即座に京に向かうことができたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「中国大返しのウラには、いつでも敵の毛利軍と和議が結べる段階まで秘密裏に交渉を進めていた武将の功績がある」という――。
蜂須賀正勝の肖像。錬甫宗純賛。侯爵蜂須賀正韶所蔵
蜂須賀正勝の肖像。錬甫宗純賛。侯爵蜂須賀正韶所蔵(写真=東京大学史料編纂所データベース/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

あまりにもタイミングが良すぎる「中国大返し」

織田信長(小栗旬)から備中(岡山県西部)攻略を命じられた羽柴秀吉(池松壮亮)は、毛利方の領土との境界にある備中高松城(岡山市北区)を攻めていた。湿地に囲まれた城を落とすために秀吉が選んだ作戦は水攻めだった。周囲に堤防を築き、そこに川の水を引き込んで、城を水没させるという策である。

ちょうど梅雨時だったため、城はたちまち湖上に浮いたような状況になり、秀吉は勝利を確信した。だが、ちょうどそのとき、天正10年(1582)6月2日早朝、わずかな供回りしか連れずに京都の本能寺に宿泊していた信長は、明智光秀(要潤)配下の軍勢に囲まれ、燃え盛る本能寺で腹を切って果てた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第27回「本能寺の変」(7月12日放送)。

第28回「急げ!秀吉」(7月19日放送)では、その翌日、備中にいる秀吉のもとに急報が届けられる。秀吉は信長の死を受け入れず、どこかで生きているはずだと信じて、毛利方との和議を急いで取りまとめ、全軍にこう命じる。「これより上様をお救いするために京へ向かう。ただひたすらに走って、走って、走り続けよ!」。

秀吉が信長の訃報を信じなかったというのはフィクションだが(すぐには信じなかった可能性も否定はできないが)、急遽、和議を結び、京都に向かって出発したことはまちがいない。しかも、城主の清水宗治を切腹させ、城は落城させている。なぜ、タイミングよく和議を結ぶことができたのか。