明治維新まで阿波を統治
蜂須賀正勝は荒くれものの野武士のイメージが強いが、実際にはこのように、冷静で冷徹な判断力を備えた戦国きっての交渉人だった。
本能寺の変の時点で数え57歳で、その後も賤ヶ岳合戦に参戦し、大坂築城の普請に加わるなど活躍を続け、天正13年(1585)3月、秀吉が内大臣になった際に、朝廷から従四位下の官位を得ている。四国攻めにも出征したが、論功行賞による阿波(徳島県)一国、17万3000石は、嫡男の家政にあたえられ、自身は大坂で秀吉の側近として仕えることを希望した。
その翌年、すなわち天正14年(1586)5月22日、大坂の自邸で死去。しかし、家政にはじまる徳島藩主としての蜂須賀家は、秀吉の死後も、関ヶ原合戦後もそのまま続いた。江戸時代には淡路(兵庫県の淡路島と沼島)も治め、25万石の領主として一度も転封されることも、改易されることもなく、明治維新まで存続した。
これだけ長く安定した統治は例外的だが、それもこれも備中高松城攻めでの功労があったからこそ、といえるだろう。


