地味だが重要な役割を果たした武将
この備中高松城攻めにも、和睦交渉にも、大きく関わっていたのが、「豊臣兄弟!」では高橋努が演じている蜂須賀小六正勝だった。どう関わったのか、時系列でみていきたい。
秀吉が出陣したのは天正10年(1582)3月のことで、蜂須賀正勝はまず、城攻めを開始する前に、毛利水軍の調略を試みている。当時、水軍力では織田より毛利のほうが優れていたため、その力を削ごうとしたのだ。毛利輝元の叔父で後見人だった小早川隆景の重臣で、船手の総帥だった乃美宗勝と盛勝父子に働きかけたことが、書状に記されている。
正勝はもともと、尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県南部)の国境を流れる木曽川流域で、水運や流通を支配した土豪の集団「川並衆」の頭目だったので、とりわけ水運がからむ案件では、勘が働いたようだ。
また、秀吉の使者として黒田官兵衛孝高とともに、高松城主の清水宗治のもとに赴き、備中と備後(広島県東部)の2カ国をあたえるので、織田方に寝返るように交渉している。だが、宗治は毛利家に忠誠を尽くし、誘いを断っている。
実は「高松城水攻め」の考案者
4月15日、秀吉はみずから率いる2万に、宇喜多氏が率いる1万を加えた総勢3万の軍勢で、高松城の周囲に陣取った。だが、高松城は東、北、西の三方を山に囲まれ、南側には沼地が広がる天然の要害で、騎馬や鉄砲隊が近づくのは容易ではない。
そこで、兵の消耗を防ぐために、高松城が湿地に囲まれているのを逆手にとり、南面に堤防を築いて足守川の水を引き込み、水没させる作戦に打って出る。
この作戦を献策したのは、『黒田家譜』などの記述から、これまで黒田官兵衛だといわれてきたが、一次史料では確認できない。近年は、水攻めの発想は、やはり川並衆ならではのものだという見方が多い(牛田義文『史伝 蜂須賀小六正勝』清文堂出版、など)。実際、工事の責任者である築堤奉行は正勝が務めており、地形を読んで適切に堤防を築くのは、かつての川並衆の技術があればこそ、だったのではないだろうか。
さて、水攻めはすなわち兵糧攻めである。物資の補給が断たれ、城内まで浸水は進み、当然ながら城兵の士気は低下する。これに対し、毛利方も救援に向かったが、なにもできなかった。これには正勝による毛利水軍の調略が効いていた。毛利氏は制海権を失って、海からの進軍や物資の補給ができず、水に浮かんだ高松城に物資を届ける舟さえない状況だったようだ。

