本能寺の変までにほぼ交渉を終えていた

この状況で、さらには6月4日には信長みずからの出陣が予定されていた。だから毛利方は、早期から和睦の交渉に応じたのである。

毛利方は安国寺恵瓊を派遣し、備中、備後、美作(岡山県北東部)、伯耆(鳥取県中西部)、出雲(島根県東部)の5カ国割譲と、城兵の生命の保全、という条件を提示。これに対して秀吉は、5カ国の割譲のほかに、城主である清水宗治の切腹を要求した(『小早川家文書』など)。

まさに水攻めが行われている最中に、安国寺恵瓊や小早川隆景らと、ギリギリの交渉を重ねたのが黒田官兵衛と蜂須賀正勝だった。この時点で秀吉麾下の武将として正勝が上位に位置しており、したがって交渉は正勝が主導し、官兵衛が補佐したものと思われる。

秀吉が本能寺の変について知ったのは、翌6月4日未明だったとされる。だが、その後も毛利方には信長が落命したという事実は知らせず、5カ国の割譲と清水宗治の切腹という条件を譲ることなく、急いで交渉をまとめ上げた。

それが可能になったのは、事前に正勝が、みずから考案したと思われる水攻めで、高松城を窮地に追い込んだうえで、いつでも和議が結べる段階まで、秘密裏に交渉を進めていたからだった。正勝は清水宗治の切腹にも立ち会っている。しかも、信長の落命という機密事項を毛利方に知られる前に、秀吉の軍勢が立ち退けるように、伝令を片っ端から監禁するなど、神経を使っている。

清水宗治公 首塚(岡山県岡山市)
清水宗治公 首塚(岡山県岡山市)(写真=Maechan0360/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons

柴田勝家に先を越された可能性

だから、秀吉の軍勢が撤退したのち、毛利方の軍勢が秀吉の軍勢を追撃することもなかった。毛利方もまもなく信長の落命を知り、秀吉を追撃するべきだという声が上がったが、小早川隆景は「誓紙の血痕がいまだ乾かざるにこれを破るは武士の恥」といって、追撃させなかった。和睦を結んだばかりですぐ破るのは武士の恥だからすべきでない、というのだ。

だが、正勝による交渉が進んでおらず、和睦を結べずに京都へと引き返していたらどうだっただろうか。あるいは、事前に交渉が進んでいなければ、秀吉はしばらく備中高松城から動けなかった可能性もある。

その意味で蜂須賀正勝は、秀吉の天下獲りの影の功労者であり、彼の交渉力がなければ、秀吉は天下を獲っていなかったかもしれない。

たとえば柴田勝家は、信長の落命を知ったのは6月6日で、そのとき上杉景勝攻略のために越中(富山県)にいた。本拠地の北庄城(福井県福井市)に戻るだけでも200キロ前後の距離で、北庄から京都までさらに百数十キロあった。だから、光秀を討つつもりも秀吉に先を越されたのだが、正勝の交渉がなければ、あるいは勝家に先を越された可能性も否定できない。