「織田体制が存続していた」とする見方が有力
大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、いよいよ小牧・長久手から本能寺後の権力再編へと物語が進んでいる。この小牧・長久手の戦いでキャスティングボートを握るのが、清須会議で三法師の名代の座をめぐり弟・信孝と争った織田信雄(山脇辰哉)だ。
家康(松下洸平)を焚きつけて秀吉(池松壮亮)とぶつけておきながら、いざ戦況が膠着すると当の家康に一言の相談もなく秀吉と単独講和。梯子を外された家康はさぞ白目をむいたことだろう。「戦下手」「暗愚」「二代目の道化」信雄に貼られたレッテルは、だいたいこの一戦に集約されている。
信雄がなぜここまで家康を担いで秀吉に牙を剥いたのか、そこには単なる感情のもつれでは片付かない事情がある。多くの人は、賤ヶ岳の戦いでライバル・柴田勝家が滅びたことで、秀吉があっさり絶対的な権力を握ったと考えている。しかし、平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』(角川新書、2024年)によれば、信雄が事実上秀吉に臣従するまでの間、実態としては信長・信雄という親子二代にわたる「織田体制」が存続していたとする見方が有力だ。信雄は建前上、いまだ秀吉の主君だったのである。
信雄は“怒って当然の扱い”だったか
ところが、この主君の座はじわじわと侵食されていく。秀吉は、賤ヶ岳合戦後の柴田勝家旧領の知行割を独断で実施。朝廷からの戦勝祝いの勅使や近江石山寺安堵の綸旨までもが、信雄を素通りして秀吉へ発給される。さらに1583年6月、信長の一周忌法要が問題となった。本来、喪主を務めるべきは三法師の名代で織田家を代表する信雄のはずだが、これを大徳寺で主催したのは、秀吉だった。主君の家の法事まで勝手に仕切られては、信雄でなくとも黙っていられまい。
しかも秀吉の攻勢は、信雄の周辺にまで及んでいた。信雄の重臣・津川雄光、岡田重孝、浅井長時らに次々と接触し、着実に秀吉派へと取り込んでいったのである。信雄からすれば、自分の家臣が自分を飛び越えて主君筋に直接つながっていく、主従関係そのものの逆転現象が進行していたことになる。知行も、祭祀も、挙句は家臣団までも奪われようとしている。これでは信雄が激怒するのも無理はない。
こうして1584年3月、信雄はついに一線を越える。秀吉に通じていたとされる津川・岡田・浅井の3名を粛清したのだ。これが小牧・長久手合戦の直接の引き金となる。
秀吉にしても、言い分はあっただろう。信雄には織田家当主としての権威こそあれ、それを行使する実力も政治手腕もない。担ぐ価値はあっても、任せる価値はない。そんな評価だったに違いない。

