“関ヶ原”では恩人の家康に弓を引いた

この赦免の恩、信雄はどうやら深く噛みしめてはいなかったらしい。なんと1600年、関ヶ原の戦いで信雄は西軍に与し、家康に弓を引いて再び所領を失うことになったのだ。命の恩人に矢を向けるとは、恩知らずにもほどがある……と言いたいところだが、その理由を記す同時代史料は存在しない。動機が定かでないまま、後世の記述に頼らざるを得ないのが実情だ。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

新井白石が江戸中期に著した『藩翰譜』は、石田三成が秀頼の命と称して信雄に黄金千枚を送ることと、尾張復帰を約束して西軍への加担を取り付けた、と伝えている。ただし白石は信長・秀吉の代についても辛辣な評を残す江戸時代の儒学者であり、この逸話も編纂物の域を出ない。史実として鵜呑みにはできないが、読み物としての完成度は異様に高いので、まずは中身を見てほしい。

入道悦ぶ事限り無く、やがて御方に参るべき由を領掌せらる。先づ昔の家人等召し集めて、物の具拵へよ、馬求めよ、さらば其の料に黄金賜はらん、とて彼の使に附けて奉行等に乞はせければ、只白銀一千枚をぞ与へける。此の定めならんには、尾張国賜はらん事もいかであるべき、と持て扱ふたる内に、子息の宰相、大野の城にて此の結構を聴き、広きに驚き急ぎ使して、如何なる事ありとも当家の人々、徳川殿に向かひ、弓を引き矢を放つ事や候ふべき、斯かるあさましき御結構こそ候はね、と教訓したりければ、入道聞きて、是も又謂はれあり、此の上の如何がせまし、案じ煩ふ内に、関が原の合戦、事終りぬ。子息の宰相、加賀の中納言利長と共に大津の御陣に参られけれど、仕出したる事もなければ、唯何となく所領せし地失つて、入道、其の後は淀殿の所縁に附き、大坂に下り住まはれけり。


筆者訳:
入道は大いに喜び、すぐに(西軍の)味方として参陣する旨を承諾した。そこでまず昔の家臣らを呼び集め、「武具を準備せよ、馬を調達せよ、そうすればその費用として黄金を与えよう」と言い、三成の使者に託して奉行らに黄金を要求させたところ、(約束の黄金ではなく)わずか白銀一千枚しか与えられなかった。

「このような調子では、尾張国を賜るという話もどうして当てにできようか」と処置に困っていたところ、息子の宰相(織田秀雄)が(自身の居城である)大野城でこの企てを聞き、その無謀さに驚いて急ぎ使者を送った。

「どのような事情があろうとも、我が家の人々が徳川殿に向かって弓を引き、矢を放つようなことがあってよいでしょうか。これほど呆れたご計画はありません」と(父である入道を)諌めた。

入道はこれを聞き、「それもまたもっともだ。この上はどうしたものか」と思い悩んでいるうちに、関ヶ原の合戦が終わってしまった。

息子の宰相は、加賀の中納言(前田利長)と共に東軍の大津の陣へ参上したものの、格別の功績を立てることもできなかったため、ただなんとなく所有していた所領を失ってしまった。

(新井白石『新編藩翰譜』第5巻 人物往来社、1968年)

恩を忘れて金に目がくらみ、息子にまで諌められる。それでいて肝心なところでは決断できず、その煽りを食って息子まで所領を失う。無茶苦茶な話だ。