数年後には、官位で家康を追い抜いた

知行も祭祀も家臣団も、気がつけば静かに奪われつつある……その焦りと、器量を値踏みされている屈辱。両者の言い分は、最初から噛み合いようがなかった。感情のもつれというより、埋めようのない評価の断絶が、小牧・長久手という形で表に噴き出したというべきだろう。

もっとも、信雄が単独講和をあっさり決断しているあたり、さほど収拾のつかない対立ではなかったのかもしれない。というよりは「おのれ秀吉」とばかりに戦ってみたら、すっきりしたようにもみえる。死んだ池田恒興たちが浮かばれないが、これが史実である。

ともあれ、これ以降、権力闘争の表舞台からは静かに退場……と思いきや、信雄の人生、ここからが意外と長い。

しかも、しょぼくれて余生を送ったわけではない。1585年2月、秀吉の推挽で正三位・権大納言に叙任。翌3月、秀吉自身が正二位内大臣に昇ると、信雄はその臣下という立場に組み込まれることになるのだが、扱いが軽くなるどころか逆である。抵抗を続けていた佐々成政の降伏を取りまとめ、秀吉・家康の和睦にも一枚噛んで実績を積み、1587年には自らも正二位内大臣に昇進。「尾張内大臣」「尾張内府」の名で呼ばれるようになる。この時点で官位の序列上、信雄は秀長よりも、そして自分がかつて焚きつけたあの家康よりも上に立っている。

極め付きは1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸だ。関白・秀吉の行列で、信雄は左大臣・近衛信輔に次ぐ第二の位置に並んでいる。要するに、武家序列の実質トップである。秀吉と戦わせておきながら梯子を外した家康を、位階の上では堂々と見下ろす立場に収まっていたわけだ。単独講和で「裏切り者」呼ばわりされた男が、数年後には家康の頭上に座っている……この落差、歴史を知らなければ誰も信じないだろう。

 

狩野探幽作 徳川家康像
狩野探幽作 徳川家康像(写真=大阪城天守閣蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

改易の背景は“豊臣大名の役割の拒否”か

ところが、ここからの人生がまた波瀾万丈だ。

1590年7月、小田原征伐の論功行賞の場で秀吉は、北条氏の旧領・関八州を家康に与え、家康の旧領である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を信雄に与えるとした。官位も最高なのに加えて領地も急増である。ところが、信雄はこれを固辞し、先祖伝来の地である尾張・伊勢をこのまま領していたいと願い出た。すると秀吉は激怒し、信雄をその場で改易、下野国那須烏山への配流を申し渡す。捨扶持はわずか2万石だったとされている。