坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか。歴史小説家の伊東潤さんは「当時の龍馬は幕府にとって忌々しい存在だった。命を狙われていると忠告もされていたのに、油断と慢心から危険を回避できなかった」という――。

※本稿は、伊東潤『偉人・敗北からの教訓』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

坂本竜馬
坂本竜馬(作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

龍馬はあくまで「薩摩側の使者」

――龍馬の事績として大きいのが、薩長同盟の仲介役となったことですね。

その通りですが、昨今はこの件での龍馬の貢献を過小評価する人が多くなりました。実際はどうだったのでしょう。

これまでは薩長の間を龍馬が取り持ち、慶応二(1866)年に薩長同盟が成立したという認識でしたが、実際は双方が主体的に動き、同盟が締結されたというのが事実のようです。

いずれにせよ薩長同盟は倒幕を目指した軍事同盟ではなく、長州藩が幕府の処分に同意しないことを前提とし、「長州藩の冤罪をそそぐために薩摩藩が周旋する」ことに主眼が置かれた同盟でした。しかも幕長戦争が始まっても、薩摩藩は中立を貫くという前提でした。

残念ながら、龍馬が木戸孝允と小松帯刀・西郷隆盛の間を周旋し、薩長同盟を成立させたという史実はなく、あくまで薩摩側の使者として交渉にあたり、最終的に、双方の覚書に裏書きし、証人になったというのが事実のようです。ある意味、元土佐藩士という立場をうまく利用したわけです。

立役者ではないが、仲介者ではあった

――この時の龍馬の立場は何だったのですか?

薩摩藩士です。龍馬といえば土佐出身なので土佐藩士と考えるのが自然ですが、この時は薩摩藩にスカウトされていました。しかし龍馬としては、維新回天の偉業の達成には土佐藩の力が必要だと思っており、これ以降も積極的に土佐藩に接触していきます。つまり薩摩藩としては、龍馬の人脈をうまく使いたかったのです。

――薩長同盟締結の立役者ではないにしろ、両藩に深く関わっていく龍馬ですが、その後の薩長両藩との関係はどうなったのですか?

まずこの覚書を機に、薩長双方の人的交流が始まり、これまでのわだかまりが消えていきます。その後、第二次長州征伐により、幕府軍の弱さが露呈され、戊辰戦争への流れができていくわけです。そうした細かい人的交流にも龍馬が介在していることがあり、龍馬が双方の融和に努めていたのは事実です。