「豊臣兄弟!」(NHK)では小牧長久手の戦いに決着がつき、家康(松下洸平)が秀吉(池松壮亮)に臣従する。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「秀吉が本拠地とする大坂に家康が行き、臣下の礼を取ったが、その決め手は秀吉が妹と母親を遣わしたことだけではなかった」という――。

※本稿は、濱田浩一郎『家康クライシス』(ワニブックスPLUS新書)の一部を再編集したものです。

小牧長久手から2年、家康は大坂へ

天正14年(1586)10月27日、徳川家康は豊臣秀吉と大坂城で対面し、臣従を約した。家康が大坂に行き、秀吉に服したのは、一つには、秀吉と全面的に戦をしても最終的には自身が劣勢となり敗れるという冷静な判断があったからだろう。もちろん、そうなると徳川領国は戦火で荒れ果て、侍は死に民衆は苦しむことになり、それは避けたいという思いもあったはずだ。

それと共に、秀吉が実妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、実母・大政所をも三河に人質として下向させるという決断をしたことも、家康が大坂に向かう大きな理由になった。

豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(南明院所蔵)、江戸時代
豊臣秀吉の妹、徳川家康の継室、朝日(旭)姫の肖像画(南明院所蔵)、江戸時代(写真=京都・南明院所蔵「旭姫像」/PD-Japan/Wikimedia Commons

そして、もう一つ、家康が秀吉に服した理由があるように思うのである。それは、家康が大坂に下るひと月ほど前のこと。遠江国の寺院に対し、家康は寺領の安堵や寺院の法規を記した文書を出している(現存する文書は3通であるが、同内容の文書は遠江国の全寺院に出された可能性も指摘されている)。

「三位中将藤原家康」という署名

重要なのは、文書の発給者(家康)の署名で、そこには「三位中将藤原家康」と記されているのである。これは、家康が三位中将(従三位右近衛中将)に朝廷から叙任されたことを示している。三位中将という位は、一般の武士から見れば、目もくらむような高位であった。ちなみに、秀吉はこのとき、従一位関白という朝廷官位の最高位を手にしていた。

家康は永禄9年(1566)には関白・近衛前久を頼り「従五位下三河守」に任命されている。若い頃から家康は朝廷官位の重要性を認識し、うまく活用してきたと言えよう(従五位下三河守の官位は、家康に三河支配の正統性を付与したと思われる)。さて、今回の従三位右近衛中将の位のことである。

秀吉は家康にどんな条件を出したのか

天正14年9月24日、秀吉からの使者と織田信雄(信長の次男)の使者が岡崎城にやって来たので、家康は浜松城から岡崎に向かい、使者と対面する。そして、その2日後の同月26日に、徳川諸将は岡崎城への参集が命じられ、家康から上洛する旨を伝達されるのだ。上方からの使者と会談した結果、家康は上洛を決意したと言えよう。

この場合、秀吉の使者が家康に伝えた「秀吉の言葉」が重要であろう。おそらく、秀吉の使者は、家康が上洛した際には身の安全を保証することなどを述べたのだろう。それと共に、秀吉使者は「三位中将」の宣旨(天皇の命令を伝える文書)をもたらしたのではないかという説もあるのだ。