秀長と家康は同じ官位になった
さて、大坂で秀吉と対面した家康は、11月5日には、秀吉に従い、参内し、正三位中納言に任命された。秀吉の弟・羽柴秀長と同位となった。ちなみに、このとき家康は姓を「藤原」から「源」に改めたという。家康から秀吉への働きかけがあったと思われる。
家康は永禄9年(1566)に、朝廷から従五位下三河守に叙任されたが、このときに苗字を「松平」から「徳川」に改めることも認められた。しかし、姓は、家康が希望した「源」ではなく「藤原氏」とされてしまう。これは、家康の叙任を仲介した近衛前久が藤原氏だったことによるとされる。家康が源氏を名乗りたいと熱望していたことは、元康と名乗っていた若い頃の文書の署名に「源」と記していたことからもわかるが、それだけに藤原氏とされてしまったことは残念ではあったろう。
家康の「藤原」から「源氏」への改姓であるが、天正16年(1588)4月に行われた聚楽第行幸と関連付ける説もある。聚楽第とは、秀吉が京都に造営した壮大な城郭風の邸宅のことだ(1587年造営)。その邸宅に秀吉が後陽成天皇を招いたのだ。その行幸行事に際しては、諸大名は上洛することが求められ、当然、家康も上洛している。
聚楽第に参集した武家領主は、秀吉への臣従を誓約させられることになるが、そのときの起請文(誓約書)に、家康は「源家康」と署名している。
この時点で将軍になることも可能に
ちなみに、家康は行幸の直前に、秀吉の執奏により、清華成を果たす。清華家とは、太政大臣まで昇進可能な、摂関家に次ぐ公家の家格である。織田信雄や羽柴秀長・秀次らも清華成している。
家康の源氏改姓は、聚楽第行幸が画期となったとする説の裏には、同年正月に足利将軍家が終焉したことがあるという。足利幕府十五代将軍の義昭は信長によって京都を追われて以降、毛利氏の庇護下にあったが、天正15年(1587)には上洛し、翌年(1588)正月13日には将軍職を辞し、出家している。足利幕府の滅亡を信長の義昭追放時(1573年)に求めることが教科書などでも多いが、厳密に言えば、1588年に足利将軍家は終焉を迎えたのである。
家康が足利将軍の終焉と共に、源氏に改姓したという説の裏には、彼が将軍職(征夷大将軍)就任を、この頃から望んでいたのではないかという考察もあるのだ。高位高官となった家康には、それは夢のまた夢でもなかったであろう。
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