日本各地に残る城には、それぞれ築かれた時代や土地に応じた工夫が凝らされている。なかには、一風変わった形や歴史を持つ城もある。偉人研究家で著述家の真山知幸さんの著書『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)より、3つの城を紹介する――。(第1回)
重要文化財 狩野 光信《豊臣秀吉像》(部分)
狩野光信画、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の肖像画(高台寺所蔵)(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康が食中毒になった場所とされる城

田中城
上から見たらまん丸!武田信玄こだわりの設計
【◎所在地:静岡県藤枝市/◎主な城主:山県昌景/◎へんな城度:★★★★☆】

徳川とくがわ家康いえやすが75歳で亡くなったのは、たいの天ぷらを食べて食中毒になったから……そんな逸話を一度は、耳にしたことがあるだろう。問題となった鯛の天ぷらを家康が食べた場所が、藤枝ふじえだ市にある田中たなかじょうだ。

そんな曰くつきの田中城は、もともと武田たけだ信玄しんげんが築いた城だった。しかし、信玄が病死して、跡を継いだ息子の勝頼かつより長篠ながしのの戦いで敗れると、駿河するが(静岡県)での支配力が低下。

徳川軍が天正てんしょう10(1582)年2月20日から田中城の総攻撃を開始すると、3月1日に開城させられている。結果的に家康に奪われた田中城だが、武田軍の城兵はその攻撃をよくしのいだとも伝えられている。設計に特徴があった田中城でなければ、ただちに落とされていたかもしれない。

その特徴とはズバリ「丸いこと」だ。

敵の攻撃を凌ぐ、全国的にも珍しい形

田中城は、直径約600メートルの同心円を描く、全国的に珍しい円郭式えんかくしき縄張なわばり(城の設計のこと)を持つ城となっている。

『[日本古城絵図] [第4帙 東海道之部(3)]』55 駿州田中城図,[江戸中期-末期] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2026-09-04)
『[日本古城絵図] [第4帙 東海道之部(3)]』55 駿州田中城図,[江戸中期-末期] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション (参照 2026-09-04)

信玄はそれまで今川氏の支城であった徳之とくの一色いっしきじょうを開城させると、重臣の馬場信房ばばのぶふさに命じて、この一風変わった田中城に改築させた。『甲陽軍鑑こうようぐんかん』の元亀げんき元年正月のじょうに、次のように書かれている。

「藤枝のとくのいつしきあけてのく、これ堅固けんごの地なりとて、馬場美濃守ばばみののかみ被仰付おおせつけられ、馬だしをとらせ、田中城と名付、暫番手持也しばらくばんてもちなり

堀をへだてて虎口こぐち(城の出入口)の外側に設けられた小さな曲輪くるわのことを「馬出うまだし」というが、信玄は半月型の「丸馬出まるうまだし」を好み、この田中城でも用いられている。また、堀と土塁どるいを半円形にした「三日月堀みかづきぼり」も、信玄が築城した城にはよく使われている。

江戸の軍学者たちは「円形の得、角形の損」と書いているが、それより前から信玄は「円形は攻めにくい」と考えていたようだ。