奪われても何度も戻ってくる不思議な城

小田家の恒例行事である「連歌れんがの会」をピンポイントで狙われて、落城したことすらあったとも伝わる。だが、氏治の戦略ミスだけではなく、小田城の構造的にもちょっと問題があったようだ。それは、小田城が平地に築かれた「平城ひらじろ」だったということ。

平城は、戦国時代の末期から江戸時代にかけて多く築かれた近世城郭の代表的なタイプとなる。

小田城歴史ひろばの案内所に展示されている復元模型
撮影=プレジデントオンライン編集部
小田城歴史ひろばの案内所に展示されている復元模型

一概には言えないが、戦巧者いくさこうしゃとは言い難い氏治が戦乱の世を生き抜くには、山の頂上にある「山城やまじろ」や、丘陵きゅうりょうにある「平山城」のほうが、まだ落とされにくかったかもしれない。

実際に弘治こうじ2(1556)年、北条ほうじょう家の援軍を得た結城政勝ゆうきまさかつが、小田家の支城・海老ヶ島城えびがしまじょうに攻め込んできた「海老ヶ島の戦い」では、敗れた氏治が敗走。小田城まで奪われてしまったが、のちに奪還している。

真山知幸『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)
真山知幸『ウソみたいだけど本当にあったへんな城』(彩図社)

どうも結城政勝が小田城を取ってはみたものの、「守りきれない」と判断して返したらしい。奪われたのに自動で帰ってくるとは……。

城を奪われては奪還することを繰り返した氏治だが、最後の奪還は叶わなかった。天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めの際に、佐竹さたけ家の家臣の梶原氏から小田城を奪い返そうとするも、失敗。

豊臣家に従った佐竹家を攻撃したことで、小田家は滅亡させられた。戦に何度も破れながらも、小田城に異様にこだわった氏治。どこかでダメな自分と居城を重ね合わせて、シンパシーを感じていたのかもしれない。

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