石垣を丸くした理由は「コストカット」
信長から鳥取城攻略の命を受けた秀吉は、「落とせないならば、兵を城に閉じ込めてしまえ」と補給路を断つ作戦に出た。
「鳥取城の渇え殺し」として後世で語られる徹底した兵糧攻めによって、鳥取城内は阿鼻叫喚、仲間同士の肉まで食べ合うという悲惨な状況に陥る。結局、合戦を行うこともなく、鳥取城は落城させられている。
関ヶ原の戦いののち、池田長吉が入城し近世城郭として整備。鳥取城は山城と平山城の側面を持つ城へと変貌を遂げた。そして江戸時代が続くうち、世の中から戦が消えていく。もはや城は戦うための施設ではなく、維持・管理するための施設となった。
国内唯一の球面石垣「巻石垣」が築かれたのは、まさにそんな平和な時代、文化4(1807)年頃のことである。天球丸と呼ばれる曲輪の石垣が崩れ出したため、その崩落防止として築かれた。
近年の研究では、通常の石垣は補修の際に解体して組み直す必要があるが、巻石垣であればその必要がないことから、コスト面での合理性的な判断だったのではないかとも考えられている。戦国時代ならば「防御力」が最優先だったはずの石垣が、平和な江戸時代には「コストカット」を理由に丸くなったとは、なんとも時代の変化を映した石垣である。
まるでアート作品のような鳥取城の巻石垣。戦のない時代に、職人たちも案外楽しんで造っていたのではないだろうか。
最弱の戦国大名といえば誰か?
小田城
落城9回⁉ それでも何度も復活したと伝わる「最弱」の城
【◎所在地:茨城県つくば市/◎主な城主:小田氏治/◎へんな城度:★★★★☆】
「戦国時代において最強の戦国大名は誰か?」。そんなお題が与えられたら、あちこちで議論が始まりそうだが、「最弱の戦国大名は誰か?」ならば、満場一致で「小田氏治」に決まりそうだ。
氏治は重要な合戦でたびたび大敗し、居城の小田城を何度も落城させられたという。しかしその一方で、氏治は城が奪われるたびに奪還に動いて、とり戻すことに成功。
「軍神」上杉謙信を相手にしたときさえも、大敗して小田城を奪われながら、のちに上杉軍がいない間に、ちゃっかり奪還したと伝わる。最弱にもかかわらず、滅びることがなかったため、氏治は「常陸の不死鳥」と称されることもある。
江戸期に成立した軍記物『小田天庵記』などから城を落とされた逸話を見てみると、他の城の救援に出かけたばかりに反撃に遭って敗走した結果、落城させられることが続いたり、家臣からの進言をスルーして全軍で進撃した結果、予想された通りに挟み撃ちにあったり……。

