豊臣秀吉にとって最大の恩人は誰か。歴史評論家の香原斗志さんは「池田恒興だろう。山崎合戦で秀吉不在の穴を埋め、織田家中に抗争が起きると真っ先に秀吉についてサポートし続けた」という――。
なぜか清須会議に選ばれた中堅武将の正体
天正10年(1582)6月2日に本能寺の変が起き、13日に織田信長(小栗旬)を斃した明智光秀(要潤)が討たれると、2週間後の27日、その後の織田政権の体制と、信長、嫡男の信忠(小関裕太)、光秀の旧領を再分配するための清須会議が開催された。
そこでは周知のとおり、信長の嫡孫の三法師を織田家の後継とし、数え3歳にすぎない三法師が成長するまでのあいだは、羽柴秀吉(池松壮亮)、柴田勝家(山口馬木也)、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀田新太)という、織田家の宿老4人が合議制で政権を運営することに決まった。
この場面が描写されたのは、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第30回「清須会議」(8月9日放送)だった。ただ、恒興に関しては、どうして4人の一角を占めたのか、と疑問をいだいた人も少なくないのではないだろうか。宿老と呼ぶにふさわしい勝家や長秀、この2人よりは新参者ながら頭角を現すことめざましく、光秀討伐の功労者でもあった秀吉にくらべると、池田恒興は織田家内の地位が劣っていた。実績も領国の規模も中堅と呼ぶにふさわしい武将だった。
それでも清須会議を機に、池田恒興の存在感は、織田家中において大いに強くなった。むろん、それは理由のないことではなかった。

