光秀が本能寺の変を起こした要因は何か。元国税調査官の大村大次郎さんは「信長は、ほかの戦国武将とは根本の経済思想が違っていた。この信長と光秀の経済思想が真っ向から衝突したとき、『本能寺の変』が起こったといえる」という――。
※本稿は、大村大次郎『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
築城の名手・光秀が築いた巨大な城
光秀は、近江の地に坂本城という当時としては巨大な城を築いていた。光秀は築城の名手でもあったのだ。
近江の坂本城は、光秀の死後、秀吉によって廃城にされており、当時の絵図なども残っていないため、どういう城だったのかはあまりわかっていない。しかし断片的な資料を集めるだけでも、相当に壮麗で巨大で先駆的な城だったことが窺える。
たとえば、安土城の画期的な部分として、瓦屋根がある。当時、瓦はまだ寺社などに使われる程度であり、城もほとんどは板葺か藁葺だったのだ。
しかし、光秀の築いた坂本城は、安土城よりも前に瓦を使用しているのだ。当時、城に瓦を使用したのは、畿内で一時代を築いた松永久秀の多聞城くらいしかなかった。
光秀は、その先駆の技術を活用し、信長もそれを採り入れたということである。
また日本の城には、名物的なものとして「鯱瓦」がある。鯱瓦というのは、城の屋根の上に乗った魚の形をした瓦のことである。

