戦国最強と呼ばれた武田軍団はどのようにつくられていたのか。元国税調査官の大村大次郎さんは「『信玄は、領民思いの領主だった』などと評されることもあるが、この認識は誤りだと言える。戦国最強と呼ばれた武田軍団は、農民の過酷な税負担により維持されていた」という――。

※本稿は、大村大次郎『お金の流れで読み解く戦国武将』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

「川中嶌百勇将戦之内 明将 武田晴信入道信玄」
「川中嶌百勇将戦之内 明将 武田晴信入道信玄」(写真=歌川国芳/大英博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

領民を干上がらせるほどの大増税

信玄には、貧弱な甲斐で戦費を賄わなければならない、というハンディがあった。

そのハンディをどう克服したのかというと、1つは土木事業である。もう1つが、増税だ。信玄は戦費を捻出するために、たびたび大増税を行っている。

甲斐地方では、普通の方法では十分な税収が上げられず、大掛かりな増税が何度も行われた。そのために、領地から逃亡する領民が続出していた。

「信玄は、領民思いの領主だった」などと評されることもあるが、この認識も誤りだと言える。甲斐の経済状況では、領民のことを考える余裕などはなかった。

天文10年に領主の座についた信玄は、翌天文11(1542)年8月には、すでに最初の大増税を実施している。新たに「棟別帳」の作成を開始したのだ。

棟別帳というのは、簡単に言えば、領内の各家屋とそこに住んでいる家族のことが記された帳簿のこと。現在の固定資産台帳のようなものである。新たに棟別帳を作成したということは、家ごとに課税する「棟別銭」という税金を強化するということだ。

これは信玄の苦肉の策でもあり、甲斐地方の貧しさを物語るものでもある。