農地ではなく、家屋や家族に課税
当時の税制は本来、農地が基本となっており、田畑に対していくらというふうに定められていた。その場合、天候などで農作物の出来が悪かったら、税の基準を引き下げなくてはならない。つまり、農作物の出来が税収を左右するのだ。
しかし、やせた土地の甲斐地方では、そういう税の掛け方では税収が確保できなかった。不作のため、頻繁に税を引き下げなくてはならなかったからだ。
そのため信玄は、農作物の出来に関係なく、毎年一定の税収を確保できる棟別銭を税の柱に据えた。農地ではなく、家屋や家族に課税することで、税収増と税の安定化を図ろうとしたのだ。
しかし、それは農民の負担を大きくしてしまう。農作物の出来が悪くても、毎年決められた税を納めなくてはならないからだ。
一方、ライバルの信長は「農民に年貢以外の厳しい税を課してはならない」としていた。信玄の政策は、それとはまったく正反対だと言える。実は信長も、棟別銭を課した事例はあるが、信玄に比べればはるかに小規模で低額のものだった。
年間200文の重税
ただ甲斐領の重税は、信玄に始まったことではない。信玄の父である信虎の時代にも、大増税が行われていた。大永2(1522)年の正月、領国全土に渡って棟別銭の課税を行った。これは度重なる戦争の費用を補うためである。
大名にとって年貢というのは、基本的に直轄領からしか得ることができない。家臣たちの知行地の年貢は、家臣のものだからである。
しかし信虎は、直轄領、非直轄領にかかわらず、領内すべてに棟別銭を課税した。しかも、それまで年貢が免除されていた寺や神社にまで、課せられることになった。これには、家臣や国人(地域の有力領主)たちも反発した。
信玄も、この棟別銭の制度を継承し、税収の柱に置いた。しかも、それ以降もたびたび増税しているのだ。当時の棟別銭の相場は年間50~100文程度とされているが、信玄は年間200文を課しており、これはかなり重税の部類に入る。
その後も棟別銭の増税を続け、その上この高額な税金を、信玄はしばしば前倒しで徴収している。永禄5(1562)年には、甲斐国鮎沢郷において、翌年の秋に納めるべき棟別銭のうち30銭を、年末までに納めるように指示した記録が残っている。

