深刻なデフレを加速させた信玄の愚策
しかも棟別銭を納付する場合、悪銭ではなく、精銭とされていた。
戦国時代の後半、当時の中心的な貨幣だった銅銭が不足し、端が欠けるなどの悪銭がたくさん出回り、精銭(きれいな銅銭)は希少となっていた。農民は、棟別銭の納付のために、その希少な精銭を用意しなくてはならなかったのだ。
そのため、武田領内では深刻なデフレに陥った。武田領内では、信玄の治世以前にも銭不足の状態だったが、信玄の世になるとさらにそれが加速したようだ。
天文11年、天文16(1547)年、天文23(1554)年、弘治2(1556)年に、銭の枯渇が起きたという記録がある。
これに対し、信玄が適切な処置を行ったとは言い難い。彼のデフレ対策とは「悪銭の事、市中に立て置くの外は、これを撰ぶべからず(市場などで定められた悪銭以外は通用を妨げてはならない)」という条文を出した程度。これは「市場で悪銭とされた銭は使えない」ということでもあり、銭不足をより加速させたと思われる。
ちなみに信長は、この悪銭の対策については、精銭を1枚1文とし、焼けた銭などは2枚で1文、大欠けしたり割れたりした銭は5枚で1文という具合に、銭の形状によって交換割合を提示し、状態の悪い銭でも貨幣として使えるようにしている。銭不足を解消するための非常に現実的で効果的な方法だ。
それに比べれば、信玄のそれはあまりに雑な金融政策だと言える。
輪をかけて農民の逃亡が増加
信玄の大増税により、税を納められない者が続出したが、それに対して信玄は「厳格な取り立て」で応じた。天文16年、棟別銭などに関する法度26条を制定している。
この法度は、農民にとって過酷なものだった。棟別銭は郷村ごとに割り振られ、どこかの家が払わなかった場合は、郷村全体でその不足分を負担しなければならなかったのだ。
さらに、家族が死んだり逃亡したりして棟別銭の欠員が出ても、その不足分は残った一族が補填しなければならないとなっていた。
この棟別銭は、よほどのことがない限り、減額や免除はないとされ、例外として認められたのは、逃亡者や死去者が多数に及び、棟別銭が基準額の倍になったときなどに限定されていた。
このような負担に、農民が耐えられるわけがない。もともと武田領は、農民の逃亡が多い地域だったが、信玄の税制改革以降は、それに輪をかけて逃亡が増えていった。
郷村からは、棟別負担の軽減を目的とした「詫言」という訴願が、信玄のもとに殺到することになった。それでも信玄は、基本的にこの棟別銭は変えなかった。そうしないと戦争費用を捻出できなかったからである。
『甲陽軍鑑』には、信玄の過酷な税の取り立てについて記載されているので、信玄が棟別銭を容赦なく取り立てようとしているのが、非常によくわかる。

