相反する経済思想が真っ向から衝突
信長は、ほかの戦国武将とは根本の経済思想が違っていた。ざっくり言えば、信長は武家社会を廃して、古代朝廷のような強力な中央集権政権を築こうとしていたのだ。
武家社会は「全国で何万、何十万という武家が、各々に領地を持ち、その統治をする」ということで成り立っている社会だった。各武家は領地内の農業経営を行っており、自分で耕作する者も多々いた。
つまり武家社会というのは、中央集権とは真逆の「各地域の独立性の高い社会」だったのである。中央政権の軍事力や統制力が弱い上に、各地域に武装した集団が割拠しているわけで、当然、紛争が起こりやすい。鎌倉から室町にかけて治安が乱れ、戦乱が絶えなかったのは、この「弱い政府」のせいでもあった。
この武家社会の矛盾を解消するために、信長は「強力な中央集権政府」を築こうと試みていたのだ。
鎌倉・室町の武家政権は、土地制度によって大きな制約を受けていた。具体的に言えば、国を運営するほどの税収や軍備が確保できないということである。
室町幕府の財政基盤が弱かったのは、結局、直轄領からしか税を徴収できなかったことが大きい。しかも、各地の土地の所有権における争いが絶えず、領主同士は、たびたび紛争を行う。信長には、それが非常に不合理な社会システムに見えたのだろう。
政府が国全体を一括管理すれば、行政も徴税もスムーズに行えるし、地域間の争いもなくなる。信長は、そういう国家づくりを目指していたようだ。
しかし光秀には、それが受け入れられなかった。彼はあくまで武家社会の中で生きており、自分の土地を「一所懸命」に守るということを最善としていた。そのために、近江・丹波の統治に心血を注いだのである。
この相反する経済思想が真っ向から衝突したとき、「本能寺の変」が起こったということである。
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