滅亡によって“愚か者”とされた北条氏
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。物語も終盤に入り、いよいよ秀吉(池松壮亮)に対抗する勢力は、関東の北条氏のみ。まさに天下統一の最終決戦は、大河最終回まで持ち越しとなる見込みだ。
そんな北条氏は、五代にわたって確固たる勢力を築きながらも、そのすべてを失ってしまったことで愚か者扱いされてきたことは否めない。「小田原評定」なんて言葉はまさに、その典型例だ。
ところが、この「小田原評定」という言葉、実はずいぶん怪しい。
そもそも、いつまでも結論が出ない会議の代名詞として広まったのは、北条氏が滅亡してから100年以上も後のことだ。
さらに、4代当主の北条氏政には、飯に汁を二度かけたのを見た父の氏康が、その無能ぶりを嘆いたという逸話まである。しかし、これも氏政の死から60年以上たって出版された『武者物語』という本に、初めて出てくる話である。
ようするに、後世の人々は北条氏が滅亡したという結果から、当主も政治も愚かだったに違いないと考えてきたわけだ。
ところが、近年の研究によって明らかになったのは、これとはずいぶん異なる北条氏の姿である。
戦の備えと外交交渉を同時に進めていた
氏政・氏直父子は、秀吉との戦争に備えて小田原城の防備を固める一方で、外交交渉を続けていた。しかも、ただの時間稼ぎだったとは片付けられない。氏政自身が京都へ赴く具体的な予定まで決まっていたと考えられる。
戦争の準備をしながら、秀吉への服従によって領国を守る道も探っていた。では、なぜ交渉はまとまらず、最後には20万ともいわれる大軍に攻め込まれることになったのか。
もともと、小田原合戦は誤解されている。この戦いを天下統一を目前にした秀吉が、風前の灯火となった北条氏を一方的に踏み潰した……と考えると、この戦いの実態を見誤る。
山口博『戦国北条氏 関東の覇者、五代一〇〇年の軌跡』(中公新書、2026年)では、小田原合戦に至るまで、北条氏が天下人とどう付き合ってきたかを、信長の時代からたどり直している。
少なくとも信長の時代には、北条氏が天下人に牙を剥いた形跡はない。むしろ、せっせとご機嫌をうかがっていたのだ。
1582年(天正10年)3月、織田勢が武田勝頼を滅ぼした。このとき氏政は駿河まで出陣している。『武家事紀』には、信長がこれを「ひときわ忠節に励んだ」と評価したとある。ただし『武家事紀』は江戸前期の編纂物であり、同時代の史料ではない。それでも、織田方が北条を「味方側の人間」として見ていたことはうかがえる。

