ところが、秀吉の「惣無事」は別物だった。松本氏によれば、秀吉は1583年(天正11年)の段階では家康を介した関東の和平を探っていたが、小牧・長久手の戦いの決着後は、自分が直接裁定すると言い出した。そこには、家康が東国交渉を専任する体制を打破する意図があったと、松本氏は考える。しかも、その「惣無事」は、北条に圧迫されてきた反北条勢力の要請を土台にしていた。そして、従わない者には制裁、という筋書きが早い段階から組み込まれていた。

もっとも、のちに家康と和睦した秀吉は、その家康を交渉役に据える。北条が交渉を蹴れば、仲介の家康も面目を潰されて敵に回る。そういう構造である。

結論が出なかったのは「天下人との線引き」のほう

これなら北条が交渉を続けながら、戦の備えも固めていたことには、合点がいく。

関東の覇者であるがゆえにおいそれとは降伏できない。臣従する気がないわけじゃないのだが、いっこうに話がかみ合わない。結果として、状況は泥沼になっていったのである。

結局、「小田原評定」とは、いつまでも結論が出ない会議の代名詞である。だが、本当に結論が出なかったのは、城の中の会議ではなく、天下人との線引きの交渉のほうだったのではないだろうか。

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